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汎ヨーロッパ・ピクニック(はんヨーロッパ・ピクニック、、)とは1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会。ピクニック事件、ヨーロッパ・ピクニック計画とも呼ばれる。 この政治集会には西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加した。この時彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。後にベルリンの壁崩壊へと繋がる歴史的事件である。 == 背景 == 1980年代後半になると、ポーランドやハンガリーでは民主化への模索がはじめられ、東側社会主義国の盟主であるソビエト連邦でもゴルバチョフによってペレストロイカが始まっていた。しかし東ドイツは未だマルクス・レーニン主義的で最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー(ドイツ社会主義統一党書記長・国家評議会議長)は国家保安省(シュタージ)(秘密警察)を用いて国民に対する締め付けを強くしていた。分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていた〔三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P3-4 〕。1988年にはソ連の雑誌さえ発禁処分にし、言論統制を強めていた〔南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P106 〕。 このような状況の中で既にハンガリー社会主義労働者党の改革派が民主化を進めていたハンガリーでは、1989年5月2日に改革派のネーメト・ミクローシュ首相がオーストリアとの国境にある鉄条網の撤去に着手した〔三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P78-79〕。これによって鉄のカーテンに穴が開けられたのである。 翌3日、ドイツ社会主義統一党(SED)の政治局会議でホーネッカーは、「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴っていた。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである〔マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P129〕。 案の定このニュースが東ドイツに飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに行けるのではないかと考え始めた。 当時の東ドイツでは、旅行は許可制で、当然西側への旅行は許可されなかったが、東側への旅行が許可される可能性は高かった。ハンガリーまでは秘密警察に睨まれることなく、合法的に国境を越えられて、ハンガリーに辿り着けば何とかオーストリア経由で西ドイツに越境できるのではないかと考え、多くの人がハンガリーへの旅行許可書を持って、ハンガリーへ向かい、そのままハンガリー・オーストリア国境も越えて西ドイツに行こうと計画して実行に移した。 しかし、ハンガリー・オーストリア国境が開放されたと言っても、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートを持った人達だけで、東ドイツ市民がこの通行を許可される可能性は殆ど無かった。このことは彼らがハンガリー・オーストリア国境まで行って初めて明らかになった事であった。結果として1989年8月初め頃にはハンガリー・オーストリア国境地帯には、越境を求める東ドイツ市民で溢れるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「汎ヨーロッパ・ピクニック」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pan-European Picnic 」があります。 スポンサード リンク
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