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ピケットの突撃(ぴけっとのとつげき、英:Pickett's Charge)は南北戦争中ゲティスバーグの戦いの最終日である1863年7月3日に、セメタリーリッジにあった北軍ジョージ・ミード少将の陣地に対して南軍ロバート・E・リー将軍の命令で行われた歩兵突撃である。その無益さは突撃を指揮したジェイムズ・ロングストリート中将によって予告されていて、避けられたはずの誤りと言われてきており、その結果、南部の戦争遂行意欲は二度と十分に回復しなかった。この攻撃でもっとも進撃できた地点は南軍の最高到達点と渾名が付けられてきた。 この突撃の名前はロングストリートの下で直接突撃を指揮した南軍の将軍の一人、ジョージ・ピケット少将に因んで付けられている。 この突撃の前日に南軍が北軍の両側面を攻撃して失敗した後、リーは3日目に北軍の中央を叩くことに決めた。7月2日の夜、ミード将軍は作戦会議で、リーが翌朝自軍の中央への攻撃を試みると正しく予測していた。 歩兵の突撃には、北軍の防御力を弱めその大砲を沈黙させる意図で行われた集中砲火が先行して行われたが、その大半は効果が薄かった。9個歩兵旅団約12,500名の兵士が、北軍の激しい大砲とライフル銃の砲火の下を、開けた戦場の4分の3マイル (1.2 km)を前進した。南軍兵の幾らかは北軍防御兵の多くを遮る低い石壁まで辿り着くことができたものの、その場所を維持することができず、50%以上の損失を出して撃退され、決定的な敗北となって、3日間に及ぶゲティスバーグの戦いとリーのペンシルベニア州に入っての作戦行動を終わらせることになった〔Pfanz, pp. 44-52.〕。ピケット将軍は何年も後に、何故ゲティスバーグでの突撃が失敗したかを尋ねられたとき、「私はいつもヤンキー(北部兵)がそれを期待していたことだったと考えてきた」と言った〔Boritt, p. 19.〕。 == 作戦と指揮体系 == この突撃は、ジェイムズ・ロングストリート中将の第1軍団とA・P・ヒル中将の第3軍団の部隊からなるジョージ・ピケット少将、J・ジョンストン・ペティグルー准将およびアイザック・R・トリンブル少将が指揮する南軍3個師団のために立案された。ペティグルーは、ヘンリー・ヒース少将の古い師団からバーケット・D・フライ大佐(アーチャー旅団)、ジェイムズ・K・マーシャル大佐(ペティグルー旅団)、ジョセフ・R・デイビス准将およびジョン・M・ブロッケンブロー大佐の各旅団を指揮した。トリンブルは、ウィリアム・ドーシー・ペンダー師団を指揮し、アルフレッド・M・スケールズ准将とジェイムズ・H・レイン准将の旅団があった。リチャード・H・アンダーソン少将の師団からカドマス・M・ウィルコックス准将とデイビッド・ラング大佐(エドワード・A・ペリー旅団)の2個旅団が右側面から攻撃を支援することになっていた〔Eicher, pp. 544-46.〕。 南軍攻撃の目標は北軍ポトマック軍の中央で、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将が指揮する第2軍団だった。中央に位置したのはウィリアム・ハーロー准将、ノーマン・J・ホール大佐およびアレクサンダー・S・ウェブ准将の旅団があるジョン・ギボン准将の師団だった。この陣地の北にはアレクサンダー・ヘイズ准将の師団から数個旅団がおり、南には第1軍団のアブナー・ダブルデイ少将の師団がおり、ジョージ・J・スタナード准将の第2バーモント旅団とチャップマン・ビドル大佐の第121ペンシルベニア連隊が含まれていた。ミード将軍の作戦本部は第2軍団前線の真後にあり、未亡人リディア・レスターが所有する小さな家だった〔。 突撃の具体的目標については歴史的に論争の種になってきた。伝統的にセメタリーリッジ上の「雑木林」が攻撃隊の目に留まりやすい目印になったと言われてきた。1993年の映画『ゲティスバーグ』のように歴史を取り扱ったものもこの見解を世に広め続けており、1880年代のゲティスバーグ戦場専門の歴史家ジョン・B・バチェルダーの著作に端を発している。しかし、ゲティスバーグ国立軍事公園の歴史家達数人によって出版された文献を含み最近の学説は、リーの実際の目標は雑木林より約300ヤード (270 m)北のよりはっきりとしており遥かに見えやすい一群の樹木であるセメタリーヒル上のジーグラーの木立であったことを示唆した。大いに議論された理論では、リーの2日目の全体作戦(セメタリーヒルの奪取)が3日目も変えられず、7月3日の攻撃はやはりこの丘とそれが見下ろす道路網を目指していたと示唆している。雑木林は現在でこそ良く目に付く印であるが、1863年当時は10フィート(3 m)以下の高さで、戦場の特定の場所から攻撃する部隊のみが見ることができた。 作戦の始まりから事は南軍にとって悪いほうに進んだ。ピケットの師団はゲティスバーグでまだ使われておらず、A・P・ヒルの健康が問題になっていて突撃に使われる部隊の選択には加わらなかった。ヒル軍団の幾つかの部隊は7月1日の戦闘に軽く関わり、7月2日は戦闘を全く行っていなかった。しかし、7月1日に激しく交戦した部隊は最後には突撃に加わった。 この突撃は一般の歴史で「ピケットの突撃」と呼ばれているものの、全体指揮はジェイムズ・ロングストリートに任されており、ピケットはその師団指揮官の一人だった。リーはまさにロングストリートにピケットの疲れを知らぬ師団が突撃を先導すべきと伝えたので、その名前が適当であるが、最近の歴史家の中には、その功績(あるいは非難)をより平等に分けるために、「ピケット=ペティグルー=トリンブルの突撃」という呼称を用いる者もいる(あるいは使われる頻度が少ないものの、「ロングストリートの突撃」)。ヒル将軍を脇に置いて、ペティグルーとトリンブルの師団はロングストリートの指揮下に付けられたものだった。かくして、ピケット将軍の名前が、参加した戦力の約3分の1を指揮し、全体はその軍団指揮官の監督の下にあった突撃に付けられることになった。ピケットの部隊はほとんど例外無しにバージニア兵であり、他の師団はノースカロライナ州、ミシシッピ州、アラバマ州およびテネシー州出身の部隊で構成された。ウィルコックスとラングの支援隊はアラバマ州とフロリダ州の出身だった〔Eicher, p. 544.〕。 この歩兵突撃に関連して、リーは北軍後方での騎兵隊の行動を考えた。J・E・B・スチュアート少将が東に騎兵師団を率い、北軍後方を攻撃することでリーの期待する突破に付け込み、またボルティモア・パイクに沿った北軍通信線(さらに撤退路)を妨げる準備を進めた。 リーは朝早くからの攻撃開始を望んでいたが、歩兵突撃隊を整列させるために午前中のほとんどを費やした。リーの作戦本部もロングストリートの作戦本部も夜明けまでにその師団を戦場に置くという命令は送らなかった。歴史家のジェフリー・D・ワートはロングストリートのこの見過ごしがリーの口頭による命令の誤解であるかあるいは命令の誤りであると述べて非難している〔Wert, pp. 98-99.〕。戦後の「南部の失われた大義」の著者達によってゲティスバーグにおけるロングストリートの業績を批判する多くの者の中には、ロングストリートがわざとリーの戦闘作戦を台無しにした証拠としてこの失態を挙げている者がいる〔Gallagher, p. 141.〕。 一方、北軍前線の最右翼ではカルプスヒルの支配を巡って7時間の戦闘が起こった。リーの意図は戦場全体にその攻撃を同期化させることであり、ミードの優勢な軍隊を集中させないで置くことだったが、突撃は協調があまり取れておらず、エドワード・"アレゲニー"・ジョンソンのカルプヒルに対する攻撃は、ロングストリートの砲撃が始まったその時には衰え始めていた〔Coddington, pp. 454-55.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピケットの突撃」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pickett's Charge 」があります。 スポンサード リンク
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