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ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)は、フランスのカトリック宣教師。ピニョー・ド・ベーヌ(Pigneau de Behaine)として知られる。のちのヴェトナム阮朝初代嘉隆帝を補佐した。ベトナム名は百多禄(Pedro)。 ==概要== エーヌ県のオリニー=アン=ティエラシュで生まれた。外国伝道の神学校を卒業し、1765年パリ外国宣教会の宣教師としてコーチシナのハーティエン(河僊:現在のキエンザン省ハティエン)に赴任。 1769年に迫害を逃れて一時インドのポンディシェリへ行きアドラン司教に任ぜられる。1775年河仙に戻り、西山党の乱によって追放の身となったグエン・フック・アイン(阮福映:後の嘉隆帝)と会い積極的に援助。 1787年に阮福映の息子阮福景を伴ってフランスに帰国。ルイ16世に会いフランスとベトナムの攻守同盟の成立に尽力。その内容は、4隻のフリゲート艦と1650人の軍隊を派遣し、その代わりコンドル島とトゥーラヌの譲渡とフランスの独占権を認めるものであった。しかしこの遠征軍の編成はインド駐在のコンウエイ軍司令官の反対にあい実現しなかった。そこでピニョーは武器と義勇兵を募り1789年コーチシナに戻り西山党と戦うが、西山党の拠点クイニョンを攻撃中に捕らえられ、暑さと疲労で衰弱したのが元で赤痢にかかり、58歳で没。遺体は軍令を持って迎えられ、阮福映が弔辞を読んだ。サイゴンにあったピニョーの墓は1983年にベトナム政府により取り壊され、遺体は焼かれてフランスへ送られた。現在、パリ外国宣教会に遺灰が安置されている。 同行したフランス人たちは阮福映にヨーロッパ式の軍事技術で貢献した。ピニョー司教はフランスとベトナムの政治的関係を築いた人物であり、これをきっかけにしてインドでイギリスに負けたフランスによるベトナム進出の足がかりが築かれた。 安南語のラテン語辞書を製作し、死後に出版された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピニョー・ド・ベーヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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