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ピムリコの謎 : ウィキペディア日本語版
ピムリコの謎[ぴむりこのなぞ]

ピムリコの謎(ぴむりこのなぞ、Pimlico Mystery、あるいはPimlico Poisoning Mysteryピムリコ毒殺事件の謎、ぴむりこどくさつじけんのなぞ))は、1886年ロンドンピムリコ地区(Pimlico district)での、トマス・エドウィン・バートレット(Thomas Edwin Bartlett)の、ことによると妻アデレード・ブランシュ・バートレット(Adelaide Blanche Bartlett)によるかもしれない、死亡を取り巻く状況につけられた名前である。
致死量のクロロホルムが、トマス・バートレットの咽喉や食道に損傷を与えていないにも関わらず、その胃から見つかり、そしてそれがどのようにしてそこに至ったのかその証拠がなかった。アデレード・バートレットは、夫の殺害の嫌疑で裁判に付され、そして無罪放免となった。陪審の法廷における発言によれば、ミセス・バートレットの無罪放免は、ひとつには検察側がどのように犯罪が実行されたか証明できなかったことによる〔。
==背景==
ピムリコの謎の核心は、富裕な食料品商人ミスタ・トマス・エドウィン・バートレット(Mr. Thomas Edwin Bartlett)(1845年 - 1886年)、年下のフランス生まれの妻アデレード・ブランシュ・ド・ラ・トルモイユ(Adelaide Blanche de la Tremoille)(1855年生まれ)、およびアデレードの後見人(tutor)で夫婦のスピリチュアル・カウンセラーで友人であるジョージ・ダイソン師(the Reverend George Dyson)のあいだの奇妙な関係である。ダイソンは、メソジスト派の聖職者で、そして(もしアデレードとダイソンが語った話が事実であるならば)エドウィンの許可を得てアデレード・バートレットを公然と口説くように勇気づけられた。エドウィン自身は、不愉快な病気(朽ち歯(rotting teeth)、それからことによるとサナダムシにも)にかかっていた。
エドウィンは、動物磁気を健康の鍵と信じている、いくらか一時的な流行を追いかけるところがあったと想像される。しかし、他方では、彼の風変わりなところと報じられているものは、一部はアデレードとダイソンの両者から聞知されたことに基づいており、両者ともに嘘をつく理由があったかもしれない。アデレードの父は、裕福な、そしてことによると称号を有するヴィクトリア女王の随員の一員でさえあると噂されたが、これは本当に1855年にフランスを訪れていたが〔ことによるとアドルフ・コロー・ド・ラ・トルモイユ、トゥアール・デスキューリー伯爵(Adolphe Collot de la Tremouille, Comte de Thouars d'Escury)。〔Michael Farrell, Adelaide Bartlett and the Pimlico mystery , British Medical Journal Volume 309 24–31 December 1994.〕、アデレードは時々、1855年にオルレアンで非嫡出子として生まれたと記録されている。英語版
クララ・チェンバレン(Clara Chamberlain)とアドルフ・コロー・ド・トマ(原文ノママ)・デスキューリー(Adolphe Collot de Thomas (sic) d'Escury)の婚姻は、1853年3月期の出生婚姻死亡索引(BMD index March quarter 1853)に、記録されていて、アデレードが非嫡出ではないという仮定に重要性を添えている。出生婚姻死亡記録は、1860年の6月期のロンドンのパンクラス地区(Pancras district)に(ド・エスキュリー(De Escury)という名字で)アドルフの死亡を記録している。
1861年の国勢調査においては、クララは未亡人であり、そして未婚の姉妹エレン・チェンバレン(Ellen Chamberlain)(17歳)はもちろん、子ヘンリー(Henry)(7歳)、アデレード(Adelaide)(5歳)、フレデリック(Frederick)(3歳)、クララ(Clara)(1歳)と共に住んでいて RG9/163 Folio 97 Page 10 Havelock Road, South Hackney、そこには上の3子はフランス生まれと記録されている。出生婚姻死亡記録は、クララの、1866年12月期の、これもパンクラス地区の、33歳での死亡を記録している。1871年の国勢調査において、孤児にされたアデレード(名字はde Thoursとして列挙されている)は、ウィリアム H (William H)とアン・ウェルビラヴド(Ann Wellbeloved)の養女にさせられ、ウィリアムは菓子製造人であった。彼女の弟フレデリック(フレディー(Freddy)として)は、同じその家族の下宿人である(ミドルセックス、ハンプトン・ウィック(Hampton Wick)、ハイ・ストリート(High Street) RG10/866 Folio 7 Page 5)。アデレードは、菓子製造人の助手そして、オルレアンではなく、パリの一地区サン・クルー(St Cloud)の生まれとして表に載せられている(弟フレディーのように)。英語版
エドウィンとアデレードは1875年に結婚した。アデレードによれば、プラトニックな結婚が意図されたが、しかし1881年に彼女はエドウィンの子を死産した。エドウィンは、難産中に(男性)医師を呼ぶようにという、(女性)子守の忠告を断ったが、これは、彼が別の男に「彼女を妨害」("to interfere with her")されたくなかったからである。〔1885年前半に、二人は、地元のメソジスト派の聖職者ダイソンに会い、そして彼はしばしば訪問するようになった。エドウィンはダイソンを遺言執行者にしたが、彼は遺言で、彼女が再婚しないという条件で(当時はふつうな条項〔)、全財産をアデレードに遺した。のちにエドウィンは死亡する4ヶ月前に遺言を書き直し、アデレードの再婚の障害を除去した〔。
1885年末頃に、アデレードは、ダイソンに、ダイソンを治療している医師アルフレッド・リーチ(Dr. Alfred Leach)によって処方されるクロロホルムをいくらか入手するように頼んだ。リーチは後に、患者にしつこく言われたため、いやいや処方したと認めている。当時の法律では、大量の医療用毒物を購入するさい、薬局で帳簿に署名しなければならなかったが、購入される量が少量である場合はその限りではない。ダイソンは、クロロホルムを大瓶1本でなく小瓶4本買い、しかも油汚れを取り除く必要があると主張していくつかの店で買った〔。エドウィンの死後になってようやく、ダイソンは、自分の行為がどのくらい疑いを抱かせるるものであるか突然悟ったと主張した。
1885年12月31日、エドウィン・バートレットは、歯科医から帰ってきて、そしてピムリコのフラットの、アデレードの横で寝入った。翌朝の午前4時少し前、アデレードは、エドウィンが死んでいるのではないかと恐れ、女性主人を起こす前に、メードにリーチ医師を連れてくるように求めた。エドウィンの胃は、液体クロロホルムで満ちていた。 アデレードをかねてからずっと嫌悪していて、実際にアデレードがエドウィンの弟と情事を持ったことを早くに非難したエドウィンの父親が、息子の死に疑いを持ち、当局を説得して調査させていなければ、エドウィンの自殺として処理されていたかもしれない。
死因審問は、犯行前にジョージ・ダイソンを共犯者とする、アデレード・バートレットによる謀殺という評決を下し、そして二人ともに逮捕された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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