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ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団である。本項ではピューの城郭都市についても述べる。 ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する〔伊東「ピュー」『新版 東南アジアを知る事典』新版、363頁〕。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている〔服部「古代ビルマ概観」『大阪外国語大学学報』12巻、100頁〕。自称は古モン語〔の「ティルチュル(tircul、突羅成)」。 エーヤワディー川流域ではタイェーキッタヤー()、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンといった、10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている〔。城郭都市の遺跡はエーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい〔田村、松田『ミャンマーを知るための60章』、22-26頁〕。1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある〔綾部、石井『もっと知りたいミャンマー』、5頁〕。また、エーヤワディー流域以外に下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されている〔田村、根本『ビルマ』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1997年2月)、94頁〕。 ピュー族の言語は完全に解読されておらず、歴史や社会の研究の大部分は考古学的発見と他民族が記した史料に依拠している〔。 == 歴史 == 3世紀前半の中国で書かれた『西南異方志』、3世紀後半の中国で書かれた『南中八郡志』には、雲南に設置されていた永昌郡(現在の保山市)の西南3,000里に「驃」の国が存在し、驃国には君臣、父子、長幼の序が存在していたと記されている〔伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史1 大陸部』、112-113頁〕。しかし、3世紀当時の中国では「驃国」の実情は明確になっていなかった〔大野『謎の仏教王国パガン』、101頁〕。 晋に書かれた『華陽国志』では、後漢時代の永昌郡]に「僄越」が居住していたことが述べられており、これが最も古い時代のピューについて記録した文献だと考えられている〔杉本直治郎「郭義恭の「広志」―南北朝時代の驃国史料として」『東洋史研究』23号3巻、88-89頁〕。『隋書』ではピューは「朱江」と記され、真臘と交流を持っていたことが伝えられている〔伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史1 大陸部』、113頁〕。ピューの支配範囲について、『新唐書』では東は陸真臘、西は東天竺、東南はドヴァーラヴァティー王国に接し、南は海に面していると述べられており、シッタン川以東を除いたエーヤワディー流域一帯がピューの勢力下に置かれていた〔伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史1 大陸部』、113-114頁〕。 7世紀に入ると、ピェー(プローム)付近に存在したシュリークシェートラが大勢力となっていた〔。3世紀から10世紀にかけて存続していたと思われるシュリークシェートラは7つのピューの城郭都市の中で最大の都市であり〔伊東「綿布と旭日銀貨」『原史東南アジア世界』、201頁〕、中国の僧である玄奘と義浄の著書には「室利差呾羅」「室利察呾羅」という名前で現れる〔石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、123-126頁〕。「シュリークシェートラ」の名前はインドのオリッサ地方の都市の旧称に由来し〔、やがてビルマ語に転訛してタイェーキッタヤーと呼ばれるようになった〔。8世紀に至ってもシュリークシェートラはピューの中心であり、18の属国を従え、9の城鎮、298の集落を有していた〔。シュリークシェートラの遺跡から出土した石棺と骨壷の銘文を解読した結果より、7-8世紀のシュリークシェートラはヴィクラマという王統によって統治されていたと推定されている〔大野『謎の仏教王国パガン』、110頁〕。 7世紀半ばから、ピュー族の都市は雲南の南詔からの攻撃を受けるようになる〔。南詔が唐の徳宗に帰順した後、ピューの王・雍羌も唐への帰属を望むようになる〔太田「ピュー」『アジア歴史事典』8巻、34頁〕。雍羌は南詔王・異牟尋の助言に従って王族(弟、もしくは息子)を唐に派遣し、楽人・楽器を献上した〔大野『謎の仏教王国パガン』、102頁〕。中国の詩人・白居易は802年に来訪したピューの使者が音楽と舞踏を披露する様子を見聞し、漢詩『驃國楽』を詠んでいる〔G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』(東亜研究所訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、21-24頁〕。808年/09年に南詔の王は「ピューの君主」を称し、上ビルマは南詔の収奪に晒される〔。832年にピューの都市は南詔によって破壊され、3,000人の住民が拓東(昆明)に連行されたと伝えられている〔。ハリンからは炭化した木片が出土しており、南詔によって放火された痕跡だと見られている〔綾部、永積『もっと知りたいビルマ』、13頁〕。 その後のピューの動向に関する記録は確認されておらず、エーヤワディー流域では9世紀半ばから11世紀のパガン王アノーヤターの 即位に至るまでの、200年近い空白の時代が生まれる〔。1千年紀に完成したビルマの建物のうち、ピューの建物と同じレンガが使われているものが50以上パガンで発見されている。この発見は経済力と軍事力を蓄えたパガン王朝がビルマで台頭する前に、ビルマ族とピュー族の間に接触があったことを物語っている〔。「パガン」は「ピューの集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛した言葉だとする説があり、エーヤワディー沿岸に散在していた19のピューの集落がパガン王朝の原型になったとも言われている〔服部「古代ビルマ概観」『大阪外国語大学学報』12巻、102頁〕〔大野『謎の仏教王国パガン』、100頁〕。伝承によれば、ピュー最後の王の甥にあたるタムダリッはピュー族を引き連れてシュリークシェートラから移住し、彼の女婿であるピューソウティがパガン王家の祖となったと言われている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピュー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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