翻訳と辞書
Words near each other
・ ピョートル・シェレスト
・ ピョートル・シェロホーノフ
・ ピョートル・ステパノヴィッチ・キセリョフ
・ ピョートル・ストゥチカ
・ ピョートル・ストルイピン
・ ピョートル・ストルーヴェ
・ ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー
・ ピョートル・スーミン
・ ピョートル・ソボチンスキー
・ ピョートル・チャイコフスキー
ピョートル・チャーダーエフ
・ ピョートル・ツォイ
・ ピョートル・ドゥルノヴォ
・ ピョートル・ニコラエヴィチ
・ ピョートル・ネステロフ
・ ピョートル・バグラシオン
・ ピョートル・バグラチオン
・ ピョートル・バロック
・ ピョートル・ビストロフ
・ ピョートル・フェドトフ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ピョートル・チャーダーエフ : ミニ英和和英辞書
ピョートル・チャーダーエフ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピョートル・チャーダーエフ : ウィキペディア日本語版
ピョートル・チャーダーエフ[ちょうおん]

ピョートル・チャーダーエフ(Пётр Я́ковлевич Чаада́ев、1794年6月7日-1856年4月26日)は、19世紀ロシアの貴族、哲学者。母方の祖父は歴史家のミハイル・シチェルバトフ
==生涯==
モスクワの古い貴族の家系に生まれる。早くに両親を亡くし孤児となり、兄とともに母方の叔母の家で養育され、叔父(D・M・シチェルバートフ)に教育された。1807年から1811年モスクワ大学で学び、グリボエードフや後にデカブリストとなるN・I・トゥルゲーネフI・D・ヤクーシキンなどと友人になる。1812年に叔父が勤務しているセミョーノフスキー近衛連隊に入隊、ボロジノの戦いをはじめとしたナポレオン戦争に従軍し、ヨーロッパ各地に転戦。聖アンナ勲章プロイセンのクルム十字章を受章。1816年ツァールスコエセローに駐屯し、歴史家のカラムジンや詩人のプーシキンと知り合う。1820年のセミョーノフスキー連隊反乱事件を機に軍務を退く。1823年から1826年まで、ヨーロッパ各地を遊学し帰国後はモスクワに住んだ。
デカブリストの乱が鎮圧され、皇帝ニコライ1世による厳重な警戒と抑圧的な検閲制度の中、チャーダーエフは以前から自分一人で考えてきた歴史哲学を発表しようと決意する。まず1829年にE・D・パンコヴァ(Е. Д. Панкова)あてに出された「哲学書簡 Философские письма」で思想が展開され、1836年にその書簡が『望遠鏡 Телескопа』誌に掲載された。哲学書簡への反響は激しく、そのロシアに対する絶望や悲観主義、農奴制やロシア正教への非難を恐れて、ニコライ1世は『望遠鏡』誌を廃刊させ『哲学書簡』を禁書にするだけでなく、勅令を出してチャーダーエフを狂人と宣告した。執筆を禁じられ医者が毎週診察し監視されたが、知的自由のための殉教者として名声は広まり、ロシア人だけでなく外国人が彼のサロンを訪れた。1837年にチャーダーエフは「ある狂人の弁明 Апология сумасшедшего」を執筆している。政治的反対者からも尊敬される独立した思想家であり、誇り高い反抗者としての姿勢を変えず、しかし当時のロシアでは為すところなく世を去った。
友人のプーシキンは「チャーダーエフはローマに生まれたらブルータスアテネならペリクレスといったところだが、ロシアでは軽騎兵の一将校である」と惜しみ、2つの詩を捧げている。18歳年下のアレクサンドル・ゲルツェンとは1840年から親しくなり、1851年に国外で発行されたゲルツェンの『ロシアにおける革命思想の発達について Du développement des idées révolutionnaires en Russie』の中でチャーダーエフへの情熱的な賞賛が表明された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピョートル・チャーダーエフ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.