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ピリッピの戦い : ミニ英和和英辞書
ピリッピの戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ピリッピの戦い ( リダイレクト:フィリッピの戦い ) : ウィキペディア日本語版
フィリッピの戦い[ふぃりっぴのたたかい]

フィリッピの戦い(、)は、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスおよびマルクス・ユニウス・ブルトゥスらが率いるリベラトレス(Liberatores、自由主義者共和主義者)の軍とマルクス・アントニウスガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスが率いる第二回三頭政治の軍が紀元前42年10月に行った戦いである。
戦いはフィリッピ(ピリッポイ)西方の平原で10月3日と10月23日の2度行われた。名称はラテン語表記の「ピリッピの戦い」とも称される。
== 開戦までの経緯 ==
紀元前44年3月、共和政の簒奪を企んだ終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルを暗殺したマルクス・ブルトゥスやカッシウスらはイタリア本土を去って、マケドニア属州を拠点〔プルタルコス「英雄伝」キケロ47〕として、マケドニアでを、アシア属州でを討ってその軍隊を奪取する〔ウェッレイウス 2.69〕などにより、アカエアからシュリアに至るローマの東部地区の支配権を手中に収め〔、プトレマイオス朝から兵糧の支援を受けるなど東方の専制国家とも同盟関係を結んだ〔プルタルコス「英雄伝」アントニウス 25〕。
一方のローマ本国では、カエサルの後継者を自称するアントニウス、オクタウィアヌスおよびマルクス・アエミリウス・レピドゥスの3人が第二回三頭政治を結成。プロスクリプティオによってマルクス・トゥッリウス・キケロら反対派の元老院議員が殺害された〔ウェッレイウス 2.64〕。また、でアントニウスらと戦ったデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはアントニウス派の刺客により暗殺〔され、ガイウス・トレボニウスはドラベッラにアシア属州で殺害される〔など、マルクス・ブルトゥスとカッシウス以外の各地のオプティマテスおよびリベラトレスは勢力を失い、結果として三頭政治側はローマ西方地区を支配下へ収めた。
三頭政治側の最初にして最大の目標はカエサル暗殺事件の首謀者であるマルクス・ブルトゥスとカッシウスを討ってカエサルの復讐を果たし、更にはローマ世界全体の支配権を得ることであった。
三頭政治側はリベラトレス討伐を決定すると、レピドゥスをイタリアへ残して、残る2人(アントニウス、オクタウィアヌス)は合計28個のローマ軍団と共にマケドニアへと出征した〔プルタルコス「英雄伝」アントニウス 21〕。
三頭政治側はとが指揮する8個軍団が先発、ローマからアドリア海を越えてマケドニアへ渡り、リベラトレス軍を探るためエグナティア街道に沿って進軍した。
ノルバヌスとデキディウスはマケドニア東部のフィリッピ(現:ピリッポイ)を通り過ぎて、狭隘な山岳地帯へ強固な陣営地を構えた。リベラトレス側はノルバヌスやデキディウスが率いる三頭政治側の軍を側面から包囲することに成功し、ノルバヌスらに自陣営を放棄、フィリッピの西方へと撤退させた〔プルタルコス「英雄伝」ブルトゥス 38〕。
後続部隊を率いたアントニウスは先行していたノルバヌスらの軍に追いついた一方、オクタウィアヌスは病気に罹り、デュッラキウム(現:ドゥラス)で一時的な滞在を余儀なくされた(オクタウィアヌスはこの戦いの間、病に悩まされ続けた)。
三頭政治側は主力となる軍団をマケドニアへ渡らせることに成功した。一方、リベラトレス側は、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが率いる130隻の巨大船団を擁する海軍による哨戒で制海権を握ることにより、三頭政治側のマケドニア遠征軍とイタリア本土との連絡を困難にさせた。
リベラトレス側は決戦を行うことを望まずに、むしろ海軍の優位性を活かした立場を利用し、イタリア本土からの物資の供給を遮断して、三頭政治側の本軍を孤立させる作戦を取った。
また、三頭政治側がアドリア海を渡る数ヶ月前から将来の決戦に備えて、リベラトレスは軍費を徴収するためにギリシアの都市を収奪、ローマの東方属州へも課税した。同地区よりローマ軍団を集め、同盟国からの友軍と共にトラキアへと集結させた。
ブルトゥスとカッシウスはフィリッピから西へ約3.5キロの両側を高地地帯に挟まれたエグナティア街道沿いの地点に陣営地を構えた。リベラトレス側の陣営地は南側を渡ることが不可能な沼沢地、北側を周囲を高い丘状地帯が連なる天然の要害に囲まれており、リベラトレス側は更に濠や防御柵を設置して守りを固めた。
そして、エグナティア街道の南側にカッシウス、北側にブルトゥスが陣営地を構え、暫くしてリベラトレス側の陣営地の近くまで到着した三頭政治側のアントニウスとは南側でカッシウスが、オクタウィアヌスとは北側でブルトゥスがそれぞれ対峙した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フィリッピの戦い」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Philippi 」があります。




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