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ピルナ包囲戦(独:Belagerung bei Pirna)は、1756年の秋にザクセンで行われた七年戦争における包囲戦である。プロイセン軍がザクセン軍を包囲し、オーストリア軍が救出を試みたが、プロイセン軍が勝利してザクセン軍は降伏した。 == 背景 == 8月29日、プロイセン軍はザクセン侵攻を開始した。フリードリヒ大王は軍を三つに分け、西のマクデブルクからはブラウンシュヴァイク公子フェルディナント軍が、東のフランクフルトからはブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム軍がそれぞれ進発し、ベーメンへ繋がる街道を封鎖しつつザクセンを東西から押し包んだ。そして大王は中央の軍を指揮し、ベルリンから一路南下してドレスデンを目指した。 当時のザクセン軍はせいぜい2万程度の兵力しかなく、プロイセン軍の侵入を知ると抵抗せずに全軍で要害の地であるピルナの陣地へ後退した。ザクセン選帝侯(兼ポーランド王)アウグスト3世とその宰相ブリュールもドレスデンを逃れてピルナの軍に合流し、ドレスデンには公妃マリア・ヨーゼファのみが残って後事を託された。このときザクセン軍はベーメンに撤退することもできたが、アウグストはブリュールや軍指揮官ルトフスキーと協議した結果ここで防戦に努めてオーストリア軍の救援を待つことに決定した。 9月9日、大王はドレスデンに入城し、先遣隊はザクセン軍陣地を取り巻いた。大王の軍と同時かもしくはやや遅れて、ブラウンシュヴァイク公子軍は南のコッタに、ベーヴェルン軍はエルベ川北岸のローメンにそれぞれ到着してプロイセン軍は合流を果たし〔Holcroft, 1789 (2008), p.69。〕、ザクセン軍を包囲する態勢を整えた。9月10日大王はピルナの西グロースセトリッツに陣を敷き、同地のフリードリヒ城館に本営を置いてザクセン軍の包囲に着手した。 包囲が行われるのと並行して、両者の間では交渉が行われた。アウグストはプロイセンの侵攻に抗議し、中立を約束するので自領から撤兵せよと要求した。しかし大王はザクセンがオーストリアやロシアと対プロイセン戦争で協調する予定であったのを知っており、たとえ中立を宣言したとしても、オーストリアと戦うに際して立場の不確かな国を背後に残しておくつもりはなかった。大王はザクセンがプロイセンと同盟を結んでオーストリアと戦うことを求めたが、アウグストは拒否した。9月19日まで交渉は続き、ヴィンターフェルトは使者としてグロースセトリッツとザクセン軍陣地の間を2度往復するも、折り合うところとならず、最終的に交渉は打ち切られた〔。この間ザクセンはオーストリアに救援要請を送っていた。プロイセン軍も包囲部隊を残してベーメン北部に侵入を開始しており、カイトの指揮する主力部隊はオーストリア軍の抵抗を排除してアウシヒを占領するに至った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピルナ包囲戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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