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ピンヤ朝()とは、1312年から1364年にかけて上ビルマ(ミャンマー北部)に存在していたシャン族の王朝である。 == 歴史 == === シャン族の台頭 === 13世紀末のビルマのパガン朝では、王国東部のシャン族が勢力を拡大していた〔大野『謎の仏教王国パガン』、209頁〕。 、、のシャン族の3兄弟は王室と婚姻関係を結び、宮廷内で勢力を伸ばした〔。パガン王ナラティーハパテは元の攻撃を受けてパガンを脱出した後、アサンカヤーにミンザイン、ヤーザティンジャンにメッカヤー(Mekkhaya)、ティハトゥにピンレー(Pinle)を与えた。1295年に末弟のティハトゥは白象王(スィンビューシン)の称号を用い、1296年にはパガンの歴代国王と同じく大王(ミンジー)を名乗った〔大野『謎の仏教王国パガン』、214頁〕。 1297年にアサンカヤーはパガンの皇太后ソウと共謀してパガン王チョウスワーを殺害し、その子ソウニッを擁立する〔ハーヴェイ『ビルマ史』、111-112頁〕。1300年にアサンカヤーは領地のミンザインで独立し()、ビルマにシャン族の王朝が創始された〔大野『謎の仏教王国パガン』、216頁〕。同年、チョウスワーの王子から援軍を求められた元の皇帝テムルはミンザインに派兵を行う〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)、161頁〕〔伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、289頁〕。3兄弟は元軍の包囲を耐え、元側の指揮官を買収して撤兵に向かわせた〔ハーヴェイ『ビルマ史』、113頁〕。 元の侵攻の後に兄弟の次弟ヤーザティンジャンが自然死し、1310年春にティハトゥは兄のアサンカヤーを毒殺して権力を奪取した〔Kala, U (1720). ''Maha Yazawin Gyi'' (in Burmese) 1 (2006, 4th printing ed.). Yangon: Ya-Pyei Publishing. 254頁; in footnote by the Dept of Universities History Research, citing an inscription date〕〔Phayre, Lt. Gen. Sir Arthur P. (1883). ''History of Burma'' (1967 ed.). London: Susil Gupta. 58–59頁〕。ティハトゥはアヴァの地を新たな本拠地に定めようと考えたが、不吉な兆候が表れたためにピンヤを本拠地に選んだ〔ハーヴェイ『ビルマ史』、115頁〕。1312年にティハトゥはピンヤをウィザヤプーラ(サンスクリット語で「勝利の都」の意)と改称して都に定め、王宮、寺院、仏塔を建設した〔大野『謎の仏教王国パガン』、218頁〕。ティハトゥはソウからパガン王家に伝わる金帯と金盆を譲り受けて王位に就き、廃位されたソウニッはティハトゥの下で一地方領主として余生を過ごした〔ハーヴェイ『ビルマ史』、115-116頁〕。 しかし、1315年ごろにティハトゥの末子(アサンカヤー)がエーヤワディー川右岸のサガインで独立して王朝を建て()、両王朝はエーヤワディー川を挟んで並立した〔伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、292頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピンヤ朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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