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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ピーター・オルワ(Peter Orwa、1949年5月2日 - 2006年3月22日)は、ケニア出身の元ボクサー。ミュンヘンオリンピックでの、ボクシングミドル級銅メダリスト。 ※国際オリンピック機構のウェッブサイト「ボクシング競技歴代メダリスト一覧」に、しかし、この姓名の記載は発見できない。 http://www.olympic.org/en/content/Sports/All-Sports/Boxing/All-Boxing-Events/ * 1949年5月、ケニアのンゲタ村生まれ。ナイロビ大学卒業。 * 1972年、ボクシングでミュンヘン・オリンピックに出場し、銅メダルを獲得。 * 1975年、来日。 * 1977年9月6日、日本ミドル級王者の工藤政志に挑戦し、それに敗れたのを最後に引退。このときは「ピーター南木」の名前で出場している。 ナイロビ大学で民族音楽を学び、歌って踊ってジャンベを叩く「ピーター・バンド」のリーダー、東アフリカ野生生物協会理事、ナイロビ博物館研究員、アフリカ世界ボクシング協会会長等も務めた。日本でも、プロボクサーとして、また歌手として活躍もあり、「わくわく動物ランド」のテーマ曲、サントリーオールドのコマーシャルソングなどを歌っていた。日本動物植物専門学院のケニア校校長を務めたこともあり、日本語も話せる。また、母国で旅行会社を経営する一方、NGO「ピースボート」などでのボランティア活動を年に3回もこなしていた。 ※ナイロビ大学卒業は、日本よりケニアに帰国後勤めた日系旅行社の日本人マネージャーの影響で名乗り始めた事実と異なる経歴。「大卒」を何かにつけひけらかすも日本人マネージャの言動に、学歴を偏重するのが日本人の性質であると理解。旅行ガイドの旅仕事中、顧客に見栄を張って披露した軽い嘘がそのまま流布されてしまった結果。――とは、生前の本人の弁。 日本や船旅の客船の中でも講演・コンサートを行っていたことがあり、愛情やユーモアがある話し方には温かい人柄がにじみでていて、好評嘖々であった。最近では体重は90キロを超え、ボクサー時代の面影はほとんどなくなっていたが、その丸々とした風貌がまた、愛嬌を生み出していた。大の親日派として知られており、ケニアと日本の友好交流組織「DUMA」にかかわる一方、著書『楽園ペポニ』(PHP研究所)において、ケニアと日本の共通点の多さについて触れた上で、自然との共生を力説している。「忍者ハットリ君」マニアであり、よく口真似をする。また、敬虔なカトリックのクリスチャンでもあった。 2006年3月16日朝、ケニアの首都ナイロビ市内の自宅に強盗団が押し入り、銃で頭部と胸部を撃たれた。ナイロビ病院のICUで治療を受けていたが、同月22日、死去した。死亡するひと月前にはピーターバンドのメンバーとともにキベラスラムのマゴソスクールに訪れ、子供たちにジャンベの叩き歌い踊りを披露、最後に「かわいい子どもたち、みんなのことは神様が守ってくれているよ。神様どうかこの子どもたちをお守りください」と長い祈りを捧げたという。 ==『楽園ペポニ』より== * ナイロビ大学卒業後は、ボクシングの腕を買われ、ナイロビ刑務所で看守として働いた。刑務所内のボクシングクラブに所属したのがきっかけで、ミュンヘン・オ リンピックにいけた。 * オリンピックではパナマの選手に負けたが、本来なら負けるような相手ではなかったという。負けた主な理由としては、そのころ勤務先の刑務所で囚人の大規模なデモがあって、練習ができなかったためであるという。 * 飽きっぽい性格であるため、オリンピック後はボクシングを続ける気にはなれず、子供のころからずっとやっていたダンスを始めたという。その後、有名なダンス振り付け師によって、ダンスチームとして日本に渡る。 * ダンサーの仕事が終わった後で、さらに日本に滞在するために再びボクシングを開始した。 * カツ丼が大好物。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピーター・オルワ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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