|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ピール・ムハンマド・ジャハーンギール(1376年 - 1407年)は、ティムール朝の王族。ティムールの子ジャハーンギールの子。母はチャガタイ・ハン国のハン・バヤン・クリの娘ハニケ、あるいはヤサウリー部族出身のバフト・ムルクと考えられている〔川口『ティムール帝国支配層の研究』、53-54頁〕。 過度の飲酒を好む人物と伝えられている〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、194頁〕。1404年にサマルカンドを訪れたカスティーリャ王国の使者ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホは、ピール・ムハンマドの容姿について、黄褐色の肌をした髭の無い人物と記録している〔クラヴィホ『チムール帝国紀行』(山田信夫訳, 桃源社, 1979年4月)、226-228頁〕。 == 生涯 == === 若年期 === 1376年、父ジャハーンギールの死から40日後に誕生した〔川口『ティムール帝国支配層の研究』、91頁〕。 1391年のティムールのキプチャク草原遠征では、叔父シャー・ルフと共に首都サマルカンドの留守を預かった〔。翌1392年からの五年戦役には、ピール・ムハンマド・ジャハーンギールも従軍した。1397年末にはアフガニスタンに赴任し、現在のアフガニスタン・イスラム共和国の東半分にあたる地域を支配していた〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、270頁〕。 1397年末に祖父ティムールの命令を受けてインド侵攻を開始、クエッタ近辺のアフガン人を討ってインダス川に到達する〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、271頁〕。ピール・ムハンマドはインダス川を遡り、トゥグルク朝の有力者サーラング・カーンが知事を務めるムルターンに包囲を敷いた。6か月の包囲の末に食糧が欠乏したムルターンを攻略するが、ピール・ムハンマドの意外な苦戦を知ったティムールは親征を決意した〔。 ムルターン攻略後にピール・ムハンマドの軍は豪雨に見舞われて軍馬をすべて失い、ピール・ムハンマドに帰順していたインドの領主たちは翻意し、ムルターンへ進軍した〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、209-210頁〕。10月25日にピール・ムハンマドの軍はティムールの本隊と合流して窮地から救われ、軍馬の補充を受けて本隊に編入された〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、221-222頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピール・ムハンマド・ジャハーンギール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|