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ファッルフシヤル(Furrukhsiyar, 1683年8月20日 - 1719年4月29日)は、ムガル帝国の第9代君主(在位:1713年 - 1719年)。シャー・ファッルフシヤル(Shah Furrukhsiyar)とも呼ばれる。父は第7代君主バハードゥル・シャー1世の次男アズィーム・ウッシャーン、母はアーサフ・ハーンの娘サーヒバ・ニズワーン。 1713年、ファッルフシヤルはサイイド兄弟の支持をうけてジャハーンダール・シャーを倒し、玉座を継承した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251〕。彼は政治的判断を兄弟に左右され、皇帝としての力量を十分に発揮できなかった。これより皇帝は有名無実と化した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251〕。 1719年2月、ファッルフシヤルはサイイド兄弟の陰謀で廃位・目つぶしのうえで幽閉され、完全に宮廷を牛耳るようになった彼らはラフィー・ウッダラジャートを後任とした〔Delhi 11 〕。 廃位された後、ファッルフシヤルは逃亡しようとしたために絞殺されてしまう〔〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251〕。 ==生涯== ===即位以前と即位=== 1685年8月20日、ファッルフシヤルは、バハードゥル・シャー1世の次男アズィーム・ウッシャーンの次男として生まれた〔。 ファッルフシヤルの父アズィーム・ウッシャーンはベンガル太守としてベンガルを統治していた。だが、1712年2月に皇帝バハードゥル・シャー1世が死んだことで皇位継承戦争に参加していたが、3月に兄のジャハーンダール・シャーに殺された〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.249〕。遺児であるファッルフシヤルはベンガルに一人残されたものの、ジャハーンダール・シャーの打倒をうかがっていた。 一方、ジャハーンダールは帝位についたのち、堕落した生活を送るようになり、デリーの宮廷はすっかり乱れてしまった〔。ファッルフシヤルはこうしたデリーの状況を見逃さず、同年4月17日に彼はベンガルのパトナで帝位を宣言し、ジャハーンダール・シャーとの対決姿勢を見せた〔。 ファッルフシヤルはジャハーンダール・シャーの軍と戦うため、ベンガルにおいて軍を召集し始めたが、彼はサイイド兄弟とも手を結ぶことにした〔。サイイド兄弟とは、アラーハーバード太守サイイド・アブドゥッラー・ハーン、ビハール太守サイイド・フサイン・アリー・ハーンの2人の兄弟のことである〔。 同年末にファッルフシヤルがデリーに向けて進軍するなか、ジャハーンダール・シャーも大軍をもって迎撃し、翌1713年1月10日にアーグラ付近サムーガルで対峙した(第二次サムーガルの戦い)〔。この戦いについて、ハーフィー・ハーンはその状況を伝記で、「階級の高低を問わず、あらゆる軍人はファッルフシヤルの勝利に希望を見出した」と述べている〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248〕。 事実、皇帝軍は士気が衰えており分裂状態であり、一日で三者連合軍に簡単に打ち破られ、ジャハーンダール・シャーは捕えられた。翌1月11日にファッルフシヤルはアーグラで即位式を挙行し、ムガル帝国の皇帝となった。2月にはジャハーンダール・シャーをズルフィカール・ハーンとともに処刑し、大勢の皇子らを盲目にして幽閉した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファッルフシヤル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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