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ファフルッディーン・イブラーヒーム・イラーキー(、Fakhr al-dīn Ibrahīm‘Irāqī、1211年 - 1289年)は、イランの神秘主義詩人。 == 生涯 == 1211年、イラン中西部の町ハマダーンでイラーキーは誕生する〔黒柳『ペルシア文芸思潮』、158頁〕〔松本「イラーキー」『新イスラム事典』、125頁〕〔藤井「イラーキー」『岩波イスラーム辞典』、171頁〕。 イラーキーは学者の家の出身で、幼少期から才覚を発揮していた〔。17歳の時、イラーキーは町を訪れていた神秘主義者の遊行僧の一団に加わっていた少年の美しさに魅了され、郷里を捨てて一行に加わり、この事が彼が神秘主義(スーフィズム)に進んだきっかけだといわれている〔。インドのムルターンに辿り着いたイラーキーはスフラワルディー教団の開祖バハーウッディーン・ザカリーヤーに25年間師事し、ザカリーヤーの娘を娶る〔。イラーキーはザカリーヤーから後継者に指名されるが他の弟子たちから妬まれ、ムルターンを出て海路メッカ(マッカ)に向かった〔。 1267年/68年にイラーキーはアナトリア半島のルーム・セルジューク朝の首都コンヤを訪れ、神秘主義者イブン・アラビーの直弟子であるサドルッディーン・クーナウィーから講義を受けた〔。保護者である貴族ムイーヌッディーンが没した後、イラーキーはコンヤを去ってエジプトのカイロに向かった。カイロではマムルーク朝から厚遇され、その後イラーキーはシリアのダマスカスに滞在する。イラーキーはインドでもうけた息子カビールッディーンとダマスカスで再会するが、まもなく病にかかって没し、彼の遺体はイブン・アラビーの墓のそばに埋葬された〔黒柳『ペルシア文芸思潮』、158-159頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファフルッディーン・イラーキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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