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マイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリスの化学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。 直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした〔Michael Faraday entry at the 1911 Encyclopaedia Britannica hosted by LovetoKnow Retrieved January 2007.〕〔"Archives Biographies: Michael Faraday", The Institution of Engineering and Technology. 〕。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。 化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。 ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど知らなかったが、史上最も影響を及ぼした科学者の1人とされている。科学史家は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる〔experimentalist in the history of science." ">"best experimentalist in the history of science." Quoting Dr Peter Ford, from the University of Bath’s Department of Physics. Accessed January 2007.〕。静電容量のSI単位「ファラッド (F)」はファラデーに因んでいる。また、1モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。 ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (Fullerian Professor of Chemistry) であり、死去するまでその職を務めた。 アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートン、マクスウェルの絵を貼っていたという〔"Einstein's Heroes: Imagining the World through the Language of Mathematics", by Robyn Arianrhod UQP, reviewed by Jane Gleeson-White, 10 November 2003, The Sydney Morning Herald.〕。 ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している。 == 前半生 == ジョージ3世時代の1791年に、ニューイントン・バッツ〔で生まれる。現在のサザーク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に1マイルほどの場所だった〔ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。 EVERY SATURDAY: A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83〕。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた〔これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは 〕。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない〔"Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. Answers.com 4 June 2007 〕。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リーボー のところに年季奉公に入った。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツの ''The Improvement of the Mind'' もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットの『化学談義』(''Conversations on Chemistry'')があった。。 1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、ジョン・テイタム の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の1人 ウィリアム・ダンス がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は快楽的なもだが、その道は成功と失敗の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは塩化窒素の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった〔。 当時の階級社会では、彼はその出自のために紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになった時、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人ジェーン・アプリースはファラデーを対等に扱おうとせず、馬車で移動する際は御車席に座らせ、食事も使用人と一緒に摂らせた。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後にナイトに叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された〔。 ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派はスコットランド国教会の分派である。結婚後しばらくして輔祭を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の長老を2期務めた。その集会所は1862年にイズリントンに移転しており、2期目はこちらで務めた。 1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが、子供はできなかった〔Frank A. J. L. James, ‘Faraday, Michael (1791–1867)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008 accessed 3 March 2009 〕。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイケル・ファラデー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michael Faraday 」があります。 スポンサード リンク
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