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ファリードゥッディーン・アッタール( Farīd al-Dīn ‘Aṭṭār: 1140年代頃 - 1221年頃)は、現在のイラン東部、ホラーサーン地方ニーシャープール出身の詩人。全名はファリードゥッディーン・アブー・ハミード・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アッタール・ニーシャープーリー Farīd al-Dīn Abū Ḥāmid Muḥammad b. Ibrāhīm ‘Aṭṭār Nīshāpūrī。代表作は韻文では『鳥の言葉〔訳し方によっては『鳥たちの集会』『鳥の会議』とも訳される。〕』 )、散文では『神秘主義聖者列伝』がある。ジャラール・ウッディーン・ルーミーはじめ後世のスーフィー詩人たちに多大な影響を与えているが、自著で自分自身についてはほとんど語っていない事もあり、その生涯については後世に付加されたと思われる伝説的な色合いの逸話が多く、詳しく分かっていない。単にアッタールとも呼ばれる。 == 概要 == 「アッタール」(عطّار ‘Aṭṭār)とはアラビア語で医薬、薬物、薬草(عطر ‘aṭr)を扱う「薬物商」のことで、前近代の「アッタール」たちは医療等の日々の薬草や薬物の調合の他に医師として患者の簡単な診療なども行っていた。そのため、ファリードゥッディーン・アッタールの伝承では、その名の通り普段は父から受け継いだ薬物商を営みながら、スーフィズムの詩作に耽っていたと言われている。アッタールの特徴は宮廷詩人やスーフィー、ダルヴィーシュのような純粋な修行者・神秘主義者の詩人ではなく、ニーシャープールで生業を営みながらスーフィー的な神秘主義詩を数多く残している点にある。 アッタールは生涯にメッカ巡礼を行い、様々な神秘主義者と交流し、散文で多くの作品を著したが俗説で約114編ある内、現存しているのは20編近くである。晩年にニーシャープールにて若かったルーミーに出会い、その将来を託して自作の詩集『神秘の書』を贈ったという逸話は名高い〔アッタールとは - コトバンク、2012年10月21日閲覧。〕〔アッタール - Yahoo!百科事典、日本大百科全書、2012年10月21日閲覧。〕。1221年頃、ニーシャープールにモンゴル帝国軍が侵入した際に殺害されたという説が古くからあるが、没年も詳しくは不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファリードゥッディーン・アッタール」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Attar of Nishapur 」があります。 スポンサード リンク
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