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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ファレーズ・ポケット(ファレーズ包囲戦、、、)は、1944年8月12日から21日まで行われたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)の主要な戦いのことである。 進撃してきた西側連合軍に包囲されてしまったドイツ第7軍、第5装甲軍の両軍が、その包囲網から脱出する為の戦いであり、その西側連合軍防衛線の隙間を脱出したことから、別名ファレーズ・ギャップ(Falaise Gap)とも呼ばれる。連合軍はセーヌ川西岸にいたドイツ軍の大半を撃破し、パリからドイツへの進撃路を確保した。 コブラ作戦(ノルマンディー上陸作戦後のアメリカ軍の作戦)の後、連合軍による迅速な進撃が南方面、南東方面、そしてブルターニュへと向かった。カーンへのアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍の進撃にドイツ西方軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲはドイツ軍の西部戦線戦力が乏しいため、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに退却を要請したが、ヒトラーはこれを拒否、それどころかモルタンで反撃するよう命令した。しかし4個装甲師団(それはクルーゲが投入できる全てであった)の残存兵力ではアメリカ第1軍に対抗するには十分ではなく、発動したリュティヒ作戦(Operation Lüttich)はかえって深刻な状況を作り出しただけであった。 8月8日、ドイツ軍を包囲する機会をつかんだ連合軍のバーナード・モントゴメリーは軍をファレーズ-シャンポワへ集結させ、南側にはアメリカ第1軍、イギリス第1軍が中央、北側にカナダ第1軍という配置でドイツ軍への攻撃を開始した。ドイツ軍は撤退路確保のために激しい反撃を加えたが、撤退は8月17日まで行われなかった。8月19日、連合軍はシャンポワでドイツ軍の退却路の蓋を塞いだが、完全に塞ぐには十分な戦力が展開していなかった。狭い脱出路を通るためにドイツ軍は必死の攻撃を見せたが、包囲網の口となるべき重要で激戦が予想される地点を防衛するのはポーランド第1機甲師団であった。 8月21日の夕方までにはドイツ軍将兵約50,000が完全に包囲された。その内、かなりの将兵が脱出できたと考えられているが、ドイツ軍の兵力等、軍事的損失は膨大であり、連合軍は決定的な勝利を挙げた。4日後、パリは解放され、8月30日までにセーヌ川西岸にドイツ軍は存在しなくなり、連合軍によるオーバーロード作戦は終了した。 == 背景 == ノルマンディー上陸作戦に続く連合軍の目標は、ドイツ軍占領下のシェルブールとノルマンディーの歴史的な町カーンであった。〔Van der Vat, p110〕しかし連合軍の進撃はドイツ軍の抵抗により進まず、なおかつ、イギリス海峡の悪天候は軍事物資、将兵の輸送に大きな支障を与えていた。〔Williams, p114〕〔Griess, p308-310〕そのため、両方の地区は早急な占領が必要であったが、シェルブールはアメリカ第VII軍団が進撃する6月27日まで占領できなかった。〔Hastings, p165〕一方、カーンでは7月20日までドイツ軍が抵抗を続けていたが、とによるイギリス、カナダ両軍の攻撃で占領された。〔Trew, p48〕 連合軍のバーナード・モントゴメリーはドイツ軍をアメリカ軍前面からイギリス、カナダ両軍の前面までで引き伸ばす作戦を提案、この作戦のおかげでアメリカ軍の進撃路が開放された。〔Hart, p38〕7月25日、ドイツ軍の警戒がカーンに向いている間に、アメリカ軍司令官オマール・ブラッドリーはコブラ作戦を発動した。〔Wilmot, p390-392〕アメリカ第1軍はブルターニュのドイツ防衛線を突破、3日目までには24キロ(15マイル)南方へ進撃し、〔Wilmot, p393〕7月30日には、コタンタン半島の付け根、アバランシュを占領した。〔Williams, p185〕 そのため、ドイツ軍防衛線南側の戦力が薄くなり、24時間で第3軍(司令官ジョージ・パットン)配下の第VⅢ軍団がブルターニュへ進撃、そのままドイツ軍の抵抗無しに南方、西方へと進撃した。〔Wilmot, p394〕〔Hastings, p280〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファレーズ・ポケット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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