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ファン・デル・パーレの聖母子 : ミニ英和和英辞書
ファン・デル・パーレの聖母子[ふぁん でる ぱーれのせいぼし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.
聖母 : [せいぼ]
 【名詞】 1. emperor's mother 2. Virgin Mary 
: [はは]
 【名詞】 1. (hum) mother 
母子 : [ぼし]
 【名詞】 1. mother and child 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

ファン・デル・パーレの聖母子 : ウィキペディア日本語版
ファン・デル・パーレの聖母子[ふぁん でる ぱーれのせいぼし]

ファン・デル・パーレの聖母子』(ファン・デル・パーレのせいぼし())は初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが描いた絵画。オーク板油彩で描かれた大きな作品で、1434年の秋に制作依頼を受け、1436年に完成した。この作品は依頼主の自身が所属する教会に対する献身と、後に自身が埋葬されるブルッヘの聖ドナトゥス協同教会 (:en:St. Donatian's Cathedral) での墓碑祭壇画としての使用を目的として制作依頼されたものと考えられている。複雑で精緻な空間描写、寓意表現がなされている作品で、中東製の絨毯が描かれた幾多のルネサンス期の絵画 (:en:Oriental carpets in Renaissance painting) のなかでも白眉といえる作品であり、後の装飾写本にも大きな影響を与えた作品である〔Fegley, Susan. "The Contemplative Eye: Early Netherlandish Painting". ''World and I'', August 1998.〕。絵画における仮想的空間描写 (:en:illusionism) を革新した作品で (〔Rothstein, p.49〕)、1432年に兄フーベルト・ファン・エイクと共作した『ヘントの祭壇画』以降の作品において、ヤン・ファン・エイクの徹底した写実主義が如実に表れている大作の一つだと見なされている。
ブルッヘ出身の聖職者ヨリス・ファン・デル・パーレから、自身の墓碑祭壇画用にとの依頼で制作された作品で、聖会話の構成で描かれた最初期の絵画作品の一つである。アダムとイヴの彫刻などで飾られた玉座に座り、幼児キリストを膝にした聖母マリアが描かれている。マリアが座る玉座に表現されているアダムとイヴはキリストの磔刑ならびにキリストの復活の予兆であり、そのほかに旧約聖書のエピソードも画面中に表現されている〔Borchert (2011), p.146〕。敬虔な雰囲気の屋内でマリアは中央に位置し、その周りを小さく囲むように、右側に依頼主ファン・デル・パーレの守護聖人である聖ゲオルギウスが中世の壮麗な騎士の甲冑に身を包んだ姿で、左側にはブルッヘ聖堂参事会の守護聖人である聖ドナトゥス (:en:Saint Donatian) が描かれている。
描かれている二人の聖人の名前が、青銅を模した画面最下部の縁にラテン文字で刻まれている。聖ゲオルギウスは、自身の前にひざまずいて描かれたこの絵画の依頼主〔宗教的絵画の制作依頼主をその作品の登場人物として描くことはよくあった (:en:Donor portrait)。〕たる律修司祭ファン・デル・パーレと聖母に敬意を表して脱帽した姿で描かれている。白いサープリス (:en:surplice) を着用したファン・デル・パーレが手に持ち、読み上げているのは時祷書である〔Rothstein, p.49〕。
== 依頼主ヨリス・ファン・デル・パーレ ==
『ファン・デル・パーレの聖母子』の依頼主であるヨリス・ファン・デル・パーレは1370年ごろにブルッヘで生まれた。聖職者としてローマ教皇の書記官を務め、経済的に成功して故郷のブルッヘに戻ったのは1425年のことだった〔Borchert (2008), p.56〕。そして、帰還後すぐにブルッヘの聖ドナトゥス協同教会〔現在の聖ドナトゥス大聖堂〕で参事会員の聖職禄を得ている。その後、1434年に病にかかったため参事会員の職務を果たすことが困難となった。それまでの功績を教会から認められ、より負担の軽い礼拝堂付きのチャプレンの職を授けられたファン・デル・パーレは、『ファン・デル・パーレの聖母子』の制作をヤン・ファン・エイクに依頼した。『ファン・デル・パーレの聖母子』の、一見すると額縁のように描かれた縁飾りの最下部には「この教会の参事会員ヨリス・ファン・デル・パーレが、この作品をヤン・ファン・エイクに描かせた。1434年から二回にわたりチャプレンの職を務めた。彼(ヤン・ファン・エイク)が完成させたのは1436年のことだった」という献辞がある〔。
『ファン・デル・パーレの聖母子』が聖ドナトゥス協同教会に献納されたのは完成直後の1436年か、ファン・デル・パーレが死去した1443年かのどちらかである〔。その後、建物が解体された1779年まで、聖ドナトゥス協同教会が所有していた。この作品が飾られていた場所としてもっとも可能性が高いのは教会身廊の壁である。これは、この身廊から続く聖ペトロ聖パウロの祭壇が、ファン・デル・パーレとその一族の記念ミサのときに使用されていた場所だったためとされる。『ファン・デル・パーレの聖母子』が聖ドナトゥス協同教会の主祭壇に置かれたのは、1566年のイコノクラスム後のことだった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ファン・デル・パーレの聖母子」の詳細全文を読む




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