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ファン・ネレ工場 () はオランダ・ロッテルダムの、1995年まで操業されていたたばこ、コーヒー、紅茶の製造工場である。1925年から1931年に建設された初期の工場施設群は「オランダ機能主義建築の最高傑作」、「オランダ近代建築史上ひいては近代建築史上を飾る代表作のひとつ」、「20世紀前半における近代主義・機能主義の象徴」などと評されており、2014年の第38回世界遺産委員会でUNESCOの世界遺産リストに加えられた。熱帯地方から調達された原料を加工するヨーロッパ市場向けの嗜好品工場であったことから、オランダの商業発展の例証という点でも意義を持つ〔。 正式名を「ファン・ネレ煙草・珈琲・紅茶工場および事務棟」(Van Nelle Tabaks, Koffie en Thee Fabrieken & Kantoor) としている文献もある。また、日本語文献の中には、「・」を入れずに「ファンネレ工場」と表記しているものもある〔〔『なるほど知図帳・世界2015』昭文社、2015年〕。 == 歴史 == ファン・ネレ社はヨハネス・ファン・ネレ (Johannes van Nelle) 夫妻によって1782年に設立され、当初はたばこ、コーヒー、紅茶の販売を手がけていた〔 f.2v〕。ヨハネスが1811年、妻ヘンリカが1813年に相次いで亡くなると遺族が引き継いだが、この商店の経営権は1837年にファン・デル・レーウ社に移った。ただし、その後も当初の社名が維持された〔。その3代目に当たるケース・ファン・デル・レーウ(Kees van der Leeuw, 1890年 - 1973年)がファン・ネレ工場を建設した〔。ケースは神智学の影響を強く受け、その福祉向上による社会改良思想の実践を企図していた〔。1913年に用地探しが始まり、1916年にはその購入も始まったが、実際に設計や着工が実現したのは第一次世界大戦後の1923年のことだった。 工場が建てられたのはロッテルダム近郊の地方自治体オーファスヒィ (Overschie) で、現在はロッテルダム市内の一地区になっている。工場の基本設計を手がけたのは、神智学者で建築家の (Michiel Brinkman) だったものの、彼が1925年に没したため、後任をおく必要が生じた〔〔 ff. 2v - 3r〕。22歳とまだ若く、力量を不安視されたミシールの息子(Johannes Andreas Brinkman, 1902年 - 1949年)に、アムステルダム派の表現主義建築家に学んだ(Leendert Cornelis van der Vlugt, 1894年 - 1936年)が加わることになった〔〔 f.3r〕。さらに、そのファン・デル・フルフトがヨハネスの実力に懸念を抱き、構造計画の技術者としても招聘した。 ファン・ネレ工場は1931年に竣工したが、実現したのは当初の建築計画の半分ほどであった〔。その理由としては、世界恐慌(1929年)の影響による業績の悪化や、ケース・ファン・デル・レーウが思い描いたような理想的な労使関係の創出にはつながらなかったことによる彼の失望などが挙げられている。 しかし、その完成前から多くの建築家の注目を集め、1927年にはヴァルター・グロピウスの著書にも掲載され、ほかにブルーノ・タウト、、ルートヴィヒ・ヒルベルザイマーらの著書にも言及が見られる。また、完成後に訪問した建築家の中にはル・コルビュジエもいた〔 f.22v〕。 この工場は1987年にアメリカのに売却され、1995年に完全に操業を停止した〔。その後、利活用の検討が続き、現在はデザイン工場 (Ontwerpfabriek) として建物の保存を重視しつつ、オフィスや貸しギャラリーなどに転用されている〔。イベント類の開催期間中ならば、一般観光客の見学も可能である〔。管理しているのは2001年に設立された合資会社の「ファン・ネレ・デザイン工場」である〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファン・ネレ工場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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