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マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433年10月19日 - 1499年10月1日)は、イタリア・ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。メディチ家の保護を受け、プラトンなどギリシア語文献の著作をラテン語に翻訳した。プラトン・アカデミーの中心人物。近年はルネサンスの芸術思想をはじめ、魔術思想、神秘思想の面など多方面で注目される思想家となった。 == 生涯 == メディチ家の侍医の子としてフィリーネ・ヴァルダルノで生まれ、ラテン語・ギリシア語を学ぶ。コジモ・デ・メディチ(1389年-1464年)に才能を見出されて、フィレンツェ郊外のカレッジに別荘を与えられ、コジモの意向によりヘルメス文書を翻訳(1463年)、次いでプラトン全集の翻訳に従事し、1469年までに完成させた。 中世ヨーロッパではスコラ学のなかでアリストテレスは知られていたものの、プラトンについては(『ティマイオス』などを例外として)ほとんど知られていなかった。フィレンツェ公会議などを契機に東ローマ帝国の学者などを介してプラトンをはじめ多くのギリシア語文献が伝わった。フィチーノによるプラトン全集の翻訳はルネサンス期の新プラトン主義(ネオプラトニズム)隆盛の元になった。 また、コジモが創立した私的なサークル、プラトン・アカデミーの中心となり、同サークルの活動によりポリツィアーノ、ピコ・デラ・ミランドラらに直接的に影響を与えた。 1473年に司祭に叙階された。主著『プラトン神学』 (''Theologia Platonica'', 1474) 、『愛について』 (''De Amore'', 1475)などを著した。 1498年、(メディチ家を追放した)サヴォナローラを反キリストとしてローマ教皇庁に告発している。これは署名なしの文書によるが、作者はフィチーノと目されている。 1499年、フィレンツェ近郊のカレッジで死去。彼の功績はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に飾られた胸像とともに讃えられている。これは彼が同大聖堂の参事会員だったことも大きいであろう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルシリオ・フィチーノ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marsilio Ficino 」があります。 スポンサード リンク
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