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フィリッポ・ブルネッレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377年 - 1446年4月15日 )は、イタリアの金細工師、彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。本名はフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ(Filippo di ser Brunellesco=ブルネッレスコ氏のフィリッポ)、ないしはフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ・デ・ラーピである〔マネッティ(浅井、1989)p61。〕が、専らその短縮形であるフィリッポ・ブルネッレスキの名で呼ばれる。主にフィレンツェで活動を行った。 彼は冗談や悪ふざけで他者をからかうことを楽しんだが、発想は鋭く、聡明で機智に富んだ〔ヴァザーリ(森田、2003) p114。〕。彫刻家としてはロレンツォ・ギベルティに遅れをとったが、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設によって絶大なる賞賛を得た。 遠近法の発明やオーダーの発見も、彼のものとされる。 ==生涯== ===幼少期から青年期=== ブルネッレスキは、フィレンツェの公証人の子として1377年に生まれた〔マネッティ(浅井、1989)p61。〕。幼少期から読み書きと算術のほかにラテン語を学んでいたが、家業は継がず、 1398年12月18日には絹織物業組合(Arte della Seeta)に金細工師として登録されている〔ヴァザーリ(森田、2003)訳注 p355。〕。1400年頃までルナルド・ディ・マッテオ・ドゥッチ・ダ・ピストーイアの工房で働いており、ピストーイアのサン・ゼーノ大聖堂にあるサン・ヤーコポ祭壇の半身像、預言者エレミヤとイザヤなどを作成したとされる〔ヴァザーリ(森田、2003)p107。〕。 ファイル:Brunelleschi, sacrificio di Isacco.JPG|ブルネッレスキ作『イサクの燔祭』 ファイル:Ghiberticompetition.jpg|ロレンツォ・ギベルティ作の『イサクの燔祭』 ファイル: Installazione florens 2012 crocifisso brunelleschi 02.JPG|ブルネッレスキ作『磔刑像』サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂ゴンディ家礼拝堂 ファイル: Installazione florens 2012 crocifisso donatello 01.JPG|ドナテッロ作『磔刑像』サンタ・クローチェ聖堂バルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂 1401年、フィレンツェに戻った彼は、輸入繊維商組合(Arte della Calimala)が主催するサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二青銅扉(北側扉)のための作成競技に参加する〔マネッティ(浅井、1989)p76。〕〔ヴァザーリ(森田、2003) p110。〕。課題は「イサクの燔祭」で、ブルネッレスキのほか7人の芸術家が参加したが、最終選考に残ったのは、ブルネッレスキとロレンツォ・ギベルティの作品であった。ヴァザーリの記述によれば、ブルネッレスキはギベルティの作品が最も優れていることを認め、彼を当選させるよう選考委員を説得したが、選考委員はブルネッレスキの技術も高く評価し、共同で作業にあたるよう要請したとされる〔ヴァザーリ(森田、2003) p111。〕。一方、マネッティは、選考委員はブルネッレスキとギベルティの作品の優劣を決定することができず、両者に共同で作業にあたるよう要請したとしている〔マネッティ(浅井、1989)pp77-81。〕。いずれにしても、この二人の作品だけが、現在もフィレンツェのバルジェロ美術館に現存しているため、選考員も甲乙を判断しかねたであろうことは想像に難くない。結局、ブルネッレスキが共同での作成を辞退したため、扉の制作はギベルティが請け負うことになった。 1404年7月2日に、絹織物業組合のマエストロとして登録され〔ヴァザーリ(森田、2003)訳注 p355。〕、時期は不明であるが、サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂において木彫りの等身大磔刑像を作り、彩色を施している〔マネッティ(浅井、1989)p68。〕。ヴァザーリは、この磔刑像が、ドナテッロの磔刑像(サンタ・クローチェ聖堂所蔵)に対抗して作られたものとしている〔ヴァザーリ(森田、2003) p109。〕が、マネッティはそのような記述を残していない。また、これも年代がはっきりしないが、ブルネッレスキは透視図法によって、サン・ジョヴァンニ洗礼堂とシニョリーア広場を描いたとされ、透視図法を最初に用いて作図を行ったのは、ブルネッレスキであるとされている〔マネッティ(浅井、1989)pp70-76。〕〔ヴァザーリ(森田、2003) p108。〕。 1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉作製選考から、1418年のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ設計競技の告示までの間、ブルネレスキは ドナテッロとともに、何度かローマに滞在し、そこでローマ建築の構造と空間の構成に一定の秩序を認め〔マネッティ(浅井、1989)p82。〕、柱の相違、つまりオーダーを発見したと言われる〔マネッティ(浅井、1989)p83。〕〔ヴァザーリ(森田、2003) p113。〕。ただし、彼らがローマに行った時期は明言されておらず、ローマ滞在の裏付けとなる明確な資料(または、それを積極的に否定する資料)は存在しない なお、ブルネッレスキは妻帯しなかったが、1417年にアンドレーア・ディ・ラッザーロ・カヴァルカンティ(通称イル・ブッジャーノ)を養子として迎えている〔ヴァザーリ(森田、2003)訳注 p362。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリッポ・ブルネレスキ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Filippo Brunelleschi 」があります。 スポンサード リンク
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