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ハーヴェイ・フィリップ・スペクター(Harvey Phillip Spector、1940年12月26日 - )は、アメリカの音楽プロデューサー。1960年代から70年代にかけて「ウォール・オブ・サウンド」と称されるプロデュースで、ポピュラー音楽の分野で大きな足跡を残した。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第64位。 == 略歴 == ニューヨーク市ブロンクスにてロシア系アシュケナジムの家庭に生まれた。父の死後にロサンゼルスに移住。十代の頃から音楽活動を始め、ザ・テディ・ベアーズ(英語版)を結成。「会ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)」が全米1位のヒットとなった。しかし彼はすぐにバンド活動よりも音楽制作の方へと興味が移り、音楽プロデューサーとしての活動を始める。 1961年にレスター・シルと共にフィレス・レコード(レーベル名は二人の名前 Phill + Les から)を設立。1963年、ザ・ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』がヒット。多人数のスタジオ・ミュージシャンを起用し、独特の音響を持つゴールド・スター・スタジオ(英語版)にて録音された複数のテイクを重ねていく作業(オーバーダビング、オーバーダブ)を何度も繰り返して作られた重厚な音は、当時としては非常に斬新なものであった。 この「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれたスペクターの音作りは、音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えた。当時はまだ録音技術が発展途上だったゆえ、この手法での録音作業は完成までかなりの時間と労力を要したが、スペクターは偏執的なまでに理想とするサウンド作りにこだわった。また、ステレオ録音が主流となってもモノラルにこだわり続けたところに、彼の偏執ぶりがよく現れている。1963年のアルバム『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター』はクリスマスアルバムの定番として有名であり、クリスマスソングをウォール・オブ・サウンド一色にデコレートしたコンセプト・アルバムであると見る向きもある。 スペクターは早い時期からザ・ビートルズと親交があり、1970年発表のアルバム『レット・イット・ビー』のプロデュース(「ゲット・バック・セッション」の再プロデュース)を手がけた。ジョン・レノンとジョージ・ハリスンはビートルズ解散寸前の散漫なセッション録音集を一作品として短期間のうちにまとめ上げたスペクターの手腕に感銘を受け、それぞれのソロ・アルバムでプロデューサーに彼を起用している。しかし、ポール・マッカートニーは特に「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にオーケストラやコーラスをオーヴァー・ダブするなどしたスペクターの再プロデュースを「オリジナル・コンセプトを無視した過剰プロデュース」として強い不満を持ち、憤慨した。 スペクターは1970年代以降もプロデューサーとして活動していたが、作業中に意見の対立したレノンに向けて拳銃で脅したり、出来が気に入らないマスターテープを勝手に持ち帰って雲隠れしたりといった奇行が目立ち、また麻薬を常習するなどして実力のほどは低迷し、1980年にラモーンズのアルバム『エンド・オブ・ザ・センチュリー』をプロデュースして以降は第一線から退いた。1989年、ロックの殿堂入り。 2003年2月、自宅で女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕される。スペクターは彼女が自殺を図ったと主張して容疑を否認し、その後保釈されている。2007年9月26日、ロサンゼルス地裁の陪審団は有罪か無罪かを判断できない「評決不能」を宣言した。2009年4月13日、検察の申し立てを受けた2度目の審理で、ロサンゼルス郡地裁の陪審により、第2級殺人罪で有罪の評決が出された。 同年5月29日、禁固19年の判決が言い渡され、現在はカリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されている。 ブライアン・ウィルソンや大瀧詠一、山下達郎も彼の影響を大きく受けている(大瀧は評伝の日本語版を監修)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィル・スペクター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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