翻訳と辞書
Words near each other
・ フェデリコ・インスーア
・ フェデリコ・カッラーロ
・ フェデリコ・カプリッリ
・ フェデリコ・カメリチス
・ フェデリコ・カメリッチ
・ フェデリコ・カルタビア
・ フェデリコ・ガルシア・ロルカ
・ フェデリコ・ガルシア・ロルカ・グラナダ=ハエン空港
・ フェデリコ・ガルシーア・ロルカ
・ フェデリコ・クルトヴィッヒ
フェデリコ・グラビーナ
・ フェデリコ・サンタンデール
・ フェデリコ・シェリフォ
・ フェデリコ・タッシナーリ
・ フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
・ フェデリコ・チュエカ
・ フェデリコ・ツッカリ
・ フェデリコ・ツッカロ
・ フェデリコ・テシオ
・ フェデリコ・デリ・エスポスティ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フェデリコ・グラビーナ : ミニ英和和英辞書
フェデリコ・グラビーナ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フェデリコ・グラビーナ : ウィキペディア日本語版
フェデリコ・グラビーナ[ちょうおん]

ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ(Don Federico Carlos Gravina y Nápoli、1756年8月12日 - 1806年3月9日)は、アメリカ独立戦争期からナポレオン戦争期にかけての時代のスペインの提督。トラファルガーの海戦に参加し、そこで受けた傷が元で死亡した。
== 経歴 ==
ドン・フアン・グラビーナ・イ・モンカーダとドンナ・レオノール・ナポリ・イ・モンテアポルトの息子として、シチリア島パレルモで生まれた。フェデリコの家系はもともとシチリアに続く家系であった。ナポリシチリア王国の駐スペイン大使であったおじの助力により、フェデリコは12歳の時に士官候補生としてスペイン海軍に入った。彼はまずフリゲート「サンタ・クララ」(Santa Clara)の候補生として、ブラジル(当時ポルトガル領)で勤務した。この航海において、サンタカタリーナ付近の辺鄙な小島にあったアセンシオン砦の降伏を受け入れる際に、彼は最初の指揮権行使の機会を得た。1777年には、ラプラタ川でボート事故に遭ったが、大部分の乗組員が水死した中、生き延びることが出来た。1778年にスペインに戻り、アルジェリア海賊を取り締まる船の士官として勤務した。その後、最初の指揮艦であるジーベック「サン・ルイス」(San Luis)を得て、1779年から1782年にかけてジブラルタル包囲戦に参加した。
海尉艦長に昇進すると、グラビーナは当時イギリスの支配下にあったメノルカ島に遠征し、サン・フェリペ要塞への攻撃で名を上げた。その後、他の功績も加わって、グラビーナは艦長に昇進した。1785年にはアルジェリア海賊を討伐する戦隊を指揮した。1788年に、帰任するフスフ・エフェンディ大使を乗せてコンスタンティノープルを訪れた(彼はその旅においてさまざまな天文観察を行い、発表している)。スペイン王カルロス3世崩御に当たっては、グラビーナはフリゲート「パス」(Paz)を指揮してそのニュースを植民地にもたらした。その際彼は、カディスから中央アメリカのスペイン領までの最速記録を達成した。
1790年にグラビーナは戦列艦「パウラ」(Paula)の指揮権を与えられ、オランからの避難〔オランは当時スペインが占領していたアルジェリア地中海岸の町。1790年10月、大きな地震があった。〕に関わった。同年、グラビーナは初めて艦隊指揮の才能を示す機会を得た。〔北アメリカ、バンクーバー島のヌートカ入り江における通商の確保と拿捕船の賠償などをめぐって、イギリスとスペインが戦争直前まで至った紛争〕においては、グラビーナは過去200年でもっとも大規模なスペイン艦隊を組織した。しかしその危機は結局、外交手段で解決された。
1793年、グラビーナはイギリスのサミュエル・フッド提督の指揮下にあるスペイン艦隊の次将として、トゥーロン攻囲戦に参加した。イギリスと同盟関係にあったこの期間、彼はイギリス海軍の規律と戦術を研究するためにポーツマスを訪問した。スペインへの帰還に際して、グラビーナは4隻の戦隊を指揮するよう命じられ、活発に革命フランスとの戦いを繰り広げている地中海で勤務した。旗艦は「エルメネヒルド」(Hermenegildo)(112門)であった。
1796年、スペインはフランスとサン・イルデフォンソ条約に調印して講和し、イギリスと敵対するに至った。グラビーナは、ドン・ホセ・デ・マサレドの戦隊で戦った。1801年には西インド諸島サント・ドミンゴに派遣され、フランスのシャルル・ルクレール将軍のハイチ侵攻を支援するスペイン艦隊を指揮した。
グラビーナは1804年、駐フランス大使に任命された。彼は、戦争が起きたらただちに軍務に復帰するという条件でこの任務を受諾した。
パリにいる間、グラビーナはナポレオン1世の戴冠式に立会い、また、フランスの海軍大臣デニス・デクレと良好な関係を築いた。グラビーナは、スペイン海軍をナポレオンの支配下に置くフランスとの協定の交渉において、主要な役割を果たした。スペイン王カルロス4世は、グラビーナをその功績によりスペイン艦隊の司令長官に任命した。グラビーナはカディスに戻り、1805年2月に軍艦「アルゴナウタ」(80門)にその将旗を揚げた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェデリコ・グラビーナ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.