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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フェドカップ(Fed Cup)は、1963年から開催されている女子テニスの国別対抗戦である。男子のデビスカップに相当する。1963年の国際テニス連盟(International Tennis ''Federation'')設立50周年を記念して、第1回大会が行われた。最初の名称は「連盟」の名前を取って「フェデレーション・カップ」(Federation Cup)といったが、1995年から現在の名称「フェドカップ」に変更された。男子同様、BNPパリバ・フェドカップ(''Fed Cup by BNP Paribas'')として開催されている。 == 歴史 == * 1976年から1982年まで、アメリカが大会7連覇を達成する。 * 1981年 フェデレーション・カップが初めて日本に誘致される。この時の会場は「多摩川園ラケットクラブ」だった。 * 1985年 フェデレーション・カップが2度目の日本誘致。この時は愛知県の「名古屋グリーンクラブ」で行われる。 * 1989年 フェデレーション・カップが3度目の日本誘致。この時は東京の有明コロシアムで行われた。アメリカ・チームが2年連続14度目の優勝を飾ったが、クリス・エバートの現役最後の試合がこのフェデレーション・カップであった。 * 1991年 この年のフェデレーション・カップで、当時の女子テニス界のトップ選手であった3名が各国の代表選手を辞退する。モニカ・セレシュ(ユーゴスラビア代表、当時最年少世界ランキング1位になったばかり)、ガブリエラ・サバティーニ(アルゼンチン代表、1988年ソウル五輪銀メダリスト)、マルチナ・ナブラチロワ(アメリカ代表)の3選手に対して、国際テニス連盟は翌1992年に行われるバルセロナ五輪の出場を禁止する措置を発表した。ここで重視された論点は「国の代表選手」としての役割である。オリンピック代表選手がこの役割を担う以上、自国の代表としてフェデレーション・カップへの出場を拒否する選手は、五輪代表にはふさわしくないのである。この年のフェデレーション・カップが今後の型となり、テニスにおけるオリンピック代表選手の選考資格に「フェドカップの代表選手であること」が必須事項の1つとなった。この年の優勝チームはスペインで、アランチャ・サンチェスとコンチタ・マルチネスのコンビが女子団体戦に君臨し始める。 * 1992年 ドイツ・チームが5年ぶり2度目の優勝。1990年10月3日に実現した東西ドイツ再統一により、この時は「統一ドイツ代表」となっていた。シュテフィ・グラフとアンケ・フーバーの2人を軸にして得た優勝だったが、これ以後ドイツはフェドカップの優勝から遠ざかっている。 * 1993年から1995年まで、スペイン・チームが大会3連覇を達成する。 * 1995年 この年から、男子国別対抗戦の「デビスカップ」に倣って、各国が前年度の成績に基づいて「グループ」に振り分けられる。日本チームは当時の最高位置である「ワールドグループ」8ヶ国に入った。 * 1996年 日本が「ワールドグループ」1回戦でドイツを3勝2敗で破り、初の準決勝に進出。準決勝ではアメリカに敗退。 * 1997年 3月1日-2日に行われたワールドグループ1回戦で、日本はフランスに敗退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェドカップ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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