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フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン(''Felix Habsburg-Lothringen'', 1916年5月31日 - 2011年9月6日)は、オーストリアの旧統治者家門ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。最後のオーストリア皇帝・福者カール1世の三男。 全名はフェリックス・フリードリヒ・アウグスト・マリア・フォム・ジーゲ・フランツ・ヨーゼフ・ペーター・カール・アントン・ロベルト・オットー・ピウス・ミヒャエル・ベネディクト・ゼバスティアン・イグナティウス・マルクス・ダヴィアノ(Felix Friedrich August Maria vom Siege Franz Joseph Peter Karl Anton Robert Otto Pius Michael Benedikt Sebastian Ignatius Marcus d'Aviano)。 == 経歴 == 皇帝カール1世とその妻でパルマ公ロベルト1世の娘であるツィタ皇后の間の第4子、三男としてシェーンブルン宮殿で生まれた。洗礼の代父は大叔父のザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世である。1918年に家族とともにオーストリアを追われ、スイス経由でマデイラ島に亡命した。 1937年秋、オーストリアへの帰国を許されてテレジア軍事アカデミー(Theresianische Militärakademie)に入学し、帝政廃止後のハプスブルク家の人間としては初めてオーストリア共和国軍に士官として所属することになった。しかし1938年のアンシュルスに際しては、国境を越えてチェコスロヴァキアに避難することを余儀なくされた。 第二次世界大戦中はアメリカ軍に入隊し、弟のカール・ルートヴィヒとともに第101歩兵大隊、通称「自由オーストリア大隊」に所属した。しかし同大隊の大多数を構成するはずだった亡命ユダヤ人志願兵が、この大隊に所属するのを拒んだため、大隊は解散に追い込まれた。 フェリックスはオーストリア政府の求める帝位請求権放棄の宣言を、人権侵害だとして拒んできた。このため、第二次大戦後にオーストリアへの入国を許可されたのは、1989年の母の埋葬式に列席するための3日間だけだった〔 〕。 1996年3月10日、フェリックスはオーストリアの国境警備がヨーロッパ連合(EU)加盟後に急速に緩和されたのに乗じ、ドイツからオーストリアへ入国、翌3月11日に自らの不法滞在に関する記者会見を行った。この事件後、フェリックスはオーストリア政府から、再度違法に入国した場合には相応の処罰を行うとの警告を受けた〔 〕。結局、フェリックスと弟カール・ルートヴィヒは、オーストリア政府の譲歩により、帝位請求権放棄に言及しない形で共和国政府に忠誠を誓うこととなり、オーストリアへの入国を許可された〔。 フェリックスはメキシコとベルギーで様々なビジネスに関わり〔、経済コンサルタントとして活動している。オーストリア政府と和解するまでは、フェリックスはポルトガル、ベルギー、メキシコ、アメリカ合衆国を転々としながら暮らしていた〔。晩年はメキシコ合衆国の首都メキシコシティのサン・アンヘル地区(San Ángel)で暮らしていた。 2011年9月8日、メキシコシティのサン・アンヘル地区で死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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