翻訳と辞書
Words near each other
・ フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック
・ フェルディナント・フォン・シル
・ フェルディナント・フォン・シーラッハ
・ フェルディナント・フォン・ツェッペリン
・ フェルディナント・フォン・バイエルン
・ フェルディナント・フォン・バイエルン (1699-1738)
・ フェルディナント・フォン・バイエルン (1884-1958)
・ フェルディナント・フォン・ヒラー
・ フェルディナント・フォン・ブレドウ
・ フェルディナント・フォン・プロイセン
フェルディナント・フォン・ミュラー
・ フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン
・ フェルディナント・フォン・リンデマン
・ フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン
・ フェルディナント・フライリヒラート
・ フェルディナント・フリードリヒ (アンハルト=ケーテン公)
・ フェルディナント・ブラウン
・ フェルディナント・ブラック
・ フェルディナント・ブラッケ
・ フェルディナント・ブランドナー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フェルディナント・フォン・ミュラー : ミニ英和和英辞書
フェルディナント・フォン・ミュラー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フェルディナント・フォン・ミュラー : ウィキペディア日本語版
フェルディナント・フォン・ミュラー[ちょうおん]

フェルディナント・フォン・ミュラー(Ferdinand Jacob Heinrich von Mueller、ドイツ名: Müller、1825年6月30日 - 1896年10月10日)は、ドイツ生まれでオーストラリアで働いた医師植物学者である。
ドイツロストックで生まれた。両親を早く失うが、祖父母のもとで良い教育を受けた。15歳から化学を学び、薬剤師の試験に合格し、キール大学でノルテErnst Ferdinand Nolte (1791–1875)のもとで植物学を学び、シュレースヴィヒ南部の地域の植物について研究し学位を得た。
妹が健康のために温暖な地に住むことを勧められ、オーストラリアのパースから戻った植物学者のルードヴィッヒ・プレイス(
Ludwig Preiss)に勧められて、1847年に2人の妹とオーストラリアに移住した。アデレードで化学者として働きながら、最初の年から、アーデン山やブラウン山を植物採取を行った。アデレードから遠くないBugle Rangesに20エーカーの土地を買い、コテージを建てて、農業をすることを試みたが数ヶ月でもとの仕事に戻った。
1851年に金鉱掘り相手の商売をするために、当時、ビクトリア植民地の首都のメルボルンに移った。この頃、ドイツの定期刊行物に植物に関する記事を掲載し、1852年にロンドン・リンネ協会に『南オーストラリアの植物』という論文を送り、植物学者の間で知られるようになっていた。1853年にビクトリア政府の知事、チャールズ·ラ·トローブはミュラーのために政府植物学者のポストを作り任命した。ミュラーはそれまで知られていなかったオーストラリア高地の植生の調査を託された。バッファロー地域を調査し、ゴールバーン川の上流まで到達し、ギップスランドを横断し、海岸に達した。アルバート港とウィルソン岬付近を調査し、メルボルンまでの2400キロを海岸に沿って旅した。同じ年に、ビクトリア国立栽培園を設立し、ミュラーの採集したオーストラリアの植物や、外国の植物を栽培した。アウグストゥス・グレゴリーの率いた探検隊にも参加し、ビクトリア川、北オーストラリアを探検し、 1856年にターミネーション湖(Termination Lake)に到達した4人のひとりになった。モートン湾への探検にも参加し、約800種のオーストラリアでの新種を発見した。1956年に『希少、またはこれまで記述されていなかったオーストラリアの植物』("''Definitions of Rare or Hitherto Undescribed Australian Plants''")を出版された。
1854年から1872年までビクトリア科学振興協会(Victorian Institute for the Advancement of Science)のメンバーで、この協会は後にビクトリア哲学協会(Philosophical Institute of Victoria)となった。1859年にビクトリア哲学協会の会長となり、勅許を得てビクトリア王立協会となった。
1857年から1873年の間、メルボルン王立植物園の園長を務め、多くの植物を栽培するが、ユーカリの優れた特性を世界に広め、ヨーロッパ、南北アメリカに導入させた。多くの外国から栄誉を受け、1861年にイギリス王立協会フェローに選ばれ、1879年にKCMG(騎士司令官)に叙爵された。オーストラリアの自然科学の発展に貢献した人物に送られるクラーク・メダルを1883年に受賞した。
アマデウス湖の発見者である、探検家アーネスト・ジャイルズを援助し、ジャイルズはフェルディナント湖と名づけるつもりであったが、ミュラーがスペインアマデオ1世の名をつけるように説得した。
1873年に、メルボルンの有力者から植物園の運営が学術的すぎることを非難されて、植物園長を解雇された。後任の園長にはウィリアム・ギルフォイルが指名され、ミュラーは、ギルフォイルの名をつけた植物の属Guilfoyliaを廃止した。ギルフォイルは植物園をメルボルン市民の好む、景色のいい公園に変えた。

==著作==

* Definitions of Rare or Hitherto Undescribed Australian Plants, (1856)
* Fragmenta phytographiæ Australiæ(once volúmenes, (1858 a 1881)
* Select Extra-Tropical Plants readily eligible for Industrial Culture or Naturalisation (1876)
* Plants Indigenous to the Colony of Victoria (dos volúmenes, 1860-1865)
* Systematic Census of Australian Plants (1882)
* Iconography of Australian Species of Acacia and Cognate Genera (1887-1888).

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェルディナント・フォン・ミュラー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.