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フェルナンド・マヌエル・シルヴァ・コウト(Fernando Manuel Silva Couto, 1969年8月2日 - )は、ポルトガル・アヴェイロ県エスピーニョ出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。現在は、SCブラガのアシスタントマネージャー。 21年のプロキャリアの間、ポルトガル, スペイン, そしてイタリア(後者の国で12シーズン)のトップチームで公式戦600試合以上に出場し、それぞれの国でダブルを達成しただけでなく、他にUEFA主催の大会で3度タイトルを獲得した。 代表では100試合以上でプレーし、2002 FIFAワールドカップと3度のUEFA欧州選手権に出場した。 == 経歴 == コウトはポルト近郊のエスピーニョに生まれ、17歳の時にFCポルトの下部組織へ入団した。1987-88シーズンの1998年6月2日、トップチームそして1部デビュー戦となったアウェーのアカデミカ・コインブラ戦に90分フル出場し、1-0の勝利に貢献。出場はこの1試合のみではあったが、このシーズンのリーグ優勝を「この経験は忘れられない」と後にも語るほどの思い出となった。その後、3部のと2部アカデミカ・コインブラにそれぞれ1シーズンずつ貸し出された。 1990年にポルトに復帰すると、すぐさまレギュラーの座を奪取し、4年在籍の間にリーグ2連覇を含め6つのタイトル獲得に貢献した。その後はイタリアへと活動の場を移し、パルマでは1年目にキャリアベストとなる27試合4ゴールを記録。UEFAカップでは、同じくセリエAを戦うユヴェントスFCとの決勝戦を2-1で制した。 1996年夏にスペインへ渡り、ポルト時代の同僚ヴィトール・バイーアとボビー・ロブソン監督や同胞のルイス・フィーゴと共にリーガ・エスパニョーラの名門FCバルセロナへ移籍した。ロブソン監督の下ではレギュラーとして、ルイ・ファン・ハール監督の下では出場機会が減少したものの、この2シーズンの間にリーガ・エスパニョーラ制覇とスペイン国王杯連覇を味わった。また、欧州戦に2シーズン共に出場し、UEFAカップウィナーズカップ 1996-97では優勝した。 カンプ・ノウで2シーズン過ごした後にバルサから去ると、コウトは1996年6月後半に同僚のイバン・デ・ラ・ペーニャと共にSSラツィオと契約し、イタリアへ舞い戻った〔Lazio: presi De la Pena e Couto. Inter: Torricelli e' vicino 〕。加入1年目のコウトはリーグ戦に22試合に出場し、チームを2位へ押し上げるのに貢献する中で、最後の大会となったUEFAカップウィナーズカップ 1997-98では、バーミンガムのヴィラ・パークで行われたRCDマジョルカとの決勝戦に残り1分のところで出場、2-1で優勝した。1999-2000シーズンはスクデット獲得の歓喜を味わうも、翌2001年にドーピング検査でステロイドの陽性反応が出た〔Davids and Couto hit with FIFA bans 〕ため、10ヶ月の出場停止が言い渡され、イタリアサッカー連盟の控訴により最終的に4ヶ月短縮された〔Davids ban reduced 〕。次のシーズンからレギュラーとしてプレーした。 2005年、36歳となったコウトはラツィオから契約更新を打診されていたが、自身が望む年俸額ではなかったため退団し、11年ぶりにパルマに復帰した。復帰後2シーズンをレギュラーとして過ごすも、2007-08シーズンは衰えから17試合に減少、チームのセリエB降格や契約満了、そして第一線でプレーすることに限界を感じたコウトは引退をすることを決めた。 引退から2年後の2010年6月にSCブラガのスポーツディレクターに任命。2012-13シーズンからは、アシスタントマネージャーの職に就いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェルナンド・コウト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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