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フェルナンド・デ・ラ・ルア(、1937年9月15日 - )は、アルゼンチンの政治家。労働・正義・教育のための同盟(急進市民同盟と国家連帯前線の政治同盟)に所属し、1999年から2001年まで大統領を務めた。姓はデ・ラ・ルーアとも表記される。 == 経歴 == アントニオ・デ・ラ・ルアと妻エレオノーラ・ブルノの子として、コルドバに生まれる。地元の軍事学校を経て、コルドバ国立大学から法学の学士号を取得。裁判官の父が中道・急進市民同盟 (UCR) の熱心な支持者だったことから若くして政治にかかわり、1963年にアルトゥロ・イリャ政権の内務相に抜てきされた。1970年にブエノスアイレスの名士の娘と結婚し、三子をもうけた。長男のアントニオ・デ・ラ・ルアはシャキーラを世に送り出したプロデューサーである。 1973年の上院選でブエノスアイレス市選挙区から出馬し、国政デビュー。数ヵ月後には同年9月の大統領選でUCRのリカルド・バルビン議員の副大統領候補に指名されたが、フアン・ペロンに大差で敗れた。36歳というあまりの若さから、チュペテ(おしゃぶり)のあだ名がつけられた〔''New York Times'' (September 26, 1999) 〕。 1976年のクーデター後はブエノスアイレス大学で刑法学を教える〔''International Who's Who. 2004.'' Europa Publications, 2003.〕かたわら、法律論の書物を4冊著した。民主政復古にともなう1983年の上院選で、圧倒的な支持を得てブエノスアイレス市選挙区から再選。経済危機のあおりを受けUCR候補が大苦戦した1989年の上院選でも、デ・ラ・ルアは正義党と民主中央同盟(ウセデ)の選挙協力の裏をかいくぐり勝利した〔''Página/12''. Parábola de Fernando. 〕。 ブエノスアイレス市の選挙民から1991年に下院議員に選ばれたが、翌年の特別選挙で上院に返り咲いた。この頃には、大統領候補としても一目置かれはじめた〔''Noticias,'' September 6, 1991.〕。1996年にはブエノスアイレスの初の民選市長に就任した。 市長時代は慢性的な財産税脱税問題にいち早く取り組んだことで人望を得た。1999年の大統領選では悪化する社会的・経済的問題に加えて、現職のカルロス・メネム大統領の汚職体質や身内に対する背信行為を糾弾し、形勢を優位にしていった〔。その結果、ライバルのエドゥアルド・ドゥアルデ・ブエノスアイレス州知事を易々と下し当選。同年12月10日に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェルナンド・デ・ラ・ルア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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