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フェルナン・ピント : ミニ英和和英辞書
フェルナン・ピント
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


フェルナン・ピント ( リダイレクト:フェルナン・メンデス・ピント ) : ウィキペディア日本語版
フェルナン・メンデス・ピント

フェルナン・メンデス・ピント(, IPA: , 古典ポルトガル語: , 1509年? - 1583年7月8日)は、ポルトガル人冒険家、著述家。かれの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 () で知られる。ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島マラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年代後半か1550年代であることが明らかになっており、鉄砲伝来に関しては不確かである〔Interracial Intimacy in Japan: Western Men and Japanese Women, 1543-1900 Gary P. Leupp, A&C Black, 2003〕。
ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる〔Cats, Rebecca Fernão Mendes Pinto and His Peregrinação Hispania periódicas . Vol. 74, No 3, September 1991, University of California , Los Angeles〕。
ただし『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてとらえるには無理があるような記述もあり、古くからつき呼ばわりされた。たとえば、ポルトガル語のだじゃれ遊びには、ピントの名前を、"Fernão, Mentes? Minto!"、(「フェルナン、嘘をついたか? 嘘をついたよ!」)としたものがあり〔 16 May 2006, 〕、イギリスの劇作家、ウィリアム・コンクリーブの喜劇には "Ferdinand Mendez Pinto was but a type of thee, thou liar of the first magnitude." (「フェルディナンド・メンデズ・ピントはおまえのようなやつの事で、おまえは第一級の嘘つきだ」)などという記述も登場する。
== 生い立ち ==
フェルナン・メンデス・ピントはモンテモル・オ・ヴェリョ1509年(1510年とも)に生まれたと見られている。貧乏な家であり、少なくとも2人の兄弟と、二人の姉妹がいた。なお、ピントをユダヤ人で、マラーノ新キリスト教徒)とする説もある〔日本語訳者の岡村多希子はピントはユダヤ人ではなかったとしているが(訳者後書き)、カリフォルニア大学ポルトガル学部はピントがマラーノであったことが通説であるとラビ・M・トケイヤーは伝えている。『ユダヤ製国家 日本』徳間書店2006〕。ピント一族はもとスペインのマドリッド近郊のピント村出身で、のち迫害をうけ、ポルトガル、モロッコ、カナリア諸島に移住したという。
彼の男兄弟のアルベロは1551年にはマラッカにおり、別の書簡ではピントの兄弟の一人はマラッカで殉教している。また、1557年にはコーチンに裕福な従兄弟フランシスコ・ガルシア・デ・ヴァルガスがいた。
1521年にはリスボンでポルトガル王ジョアン2世の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主でもあったジョルジ公の元で奉公していたが、2年後、フランシスコ・デ・ファリアに奉公するため、セトゥーバルに向けて出航したが、フランスの海賊船に襲われてアレンテジョの海岸まで連れ去られ放置された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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