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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フェートノーザンは日本の競走馬。帝王賞、ブリーダーズゴールドカップなど、まだ数が少なかった中央競馬と地方競馬の交流競走を次々と制した1980年代を代表するダートの強豪馬の一頭。主戦騎手は安藤勝己。 父フェートメーカーはアメリカ合衆国の名馬スワップス(ハイペリオン系)の仔で、当時としてはめずらしい外国産馬として南関東公営競馬で出走したが大成はしなかった。種牡馬として本馬のほかにカウンテスアップ、リバーストンキング、カズノタンポポなど地方競馬の活躍馬を出した。 ※馬齢は、旧表記(数え年)で統一する。 == 戦績 == === 中央競馬所属時代 === 1986年3月30日、阪神競馬場のダート1700メートルの未出走戦でデビュー。2着に7馬身差をつけ初戦を飾った。 次走こそ初の芝レースで11着と大敗するも、3戦目はダートに戻って2勝目を挙げた。 この後、芝競走を2戦使われたがいいところ無く敗れ、笹針を打って休養に入った。 秋以降は、ダート戦に絞ってレースを使われるようになる。 復帰戦でいきなりの勝利を挙げると、連闘で挑んだ準オープン戦は5着と、ダートで初の敗戦を喫したが、次走は2着に2馬身半差をつける危なげない勝ち方でオープン入りを果たした。 重賞初挑戦となったウインターステークスでは、この年の最優秀ダートホースとなるライフタテヤマに歯が立たず、2着を確保するまでだったが、 年明け初戦の平安ステークス(オープン)を確実に勝利し、古馬となっての飛躍が期待された。 しかし、続く仁川ステークスをフレグモーネのため出走取り消しを余儀なくされると、2週間後の帝王賞でも調子が戻りきらず、テツノカチドキの11着と大敗を喫した。 この後持病の裂蹄が悪化し、笠松競馬場の外厩で休養に入った。 この時に笠松側からフェートノーザンの移籍を打診。 当時の中央では、目標となるダート競走が限られていたため、活躍の場を求めてこれに応じることとなった〔1987年当時、中央競馬のダート重賞の内、古馬のサラブレッドが出走できたのは、フェブラリーハンデ、札幌記念、根岸ステークス、ウインターステークスの4レースのみ。全てGIII。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェートノーザン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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