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フォッジャ・カルチョ(Foggia Calcio)は、イタリア・プッリャ州フォッジャに本拠地を置くサッカークラブチーム。2015-16シーズンはレガ・プロ・ジローネCに所属。 == 歴史 == ''Sportiva Club Foggia''として1920年5月に設立。そのすぐ後にUSアトレタとマチステとUSプロ・フォッジャ、そしてスポルティング・クラブ・フォッジャの4クラブが統合してリーグに参加し、1957-58シーズンにはSCフォッジャとフォッジャ・インセディトが統合し新たにSCフォッジャ&インセディト(''US Foggia & Incedit'')とする。 1961-62シーズンにはドメニコ・ローサ・ローサが新会長として就任しオロンツォ・プリェーゼが監督としてセリエBに昇格する。ローサ・ローサ&プリェーゼの快進撃は止まらず1963-64シーズンにはセリエAへ昇格して3年連続で残留。1965年1月31日にはエレニオ・エッレーラでインテルを3-2と下した。 1966-67シーズンから3シーズン指揮をとったトンマーゾ・マエストレッリは、1973-74シーズンにSSラツィオの監督に就任すると采配が的中しラツィオに史上初のスクデットをもたらしている。 1972-73シーズンでは監督にラウロ・トネアットを招き入れて戦ったが、スポーツ裁判で-6のペナルティを受けてしまった過去もある。70年代でセリエAの舞台に上がれたのは1976-77シーズンと1977-78シーズンの2度。この時の会長はアントニオ・フェシェでエットーレ・プリチェッティが監督を務めていた。 1984年4月24日にはアントニオ・リオーチェ、フラテッリ・パスクアーレ、アニエッロ・カシッロを中心としたフォッジャ人によるロッソネーリ(フォッジャのサポーターグループ)が結成され、USフォッジャの新しい歴史が始まる。1988-1989シーズンはセリエCのジローネBでパレルモと最後まで争いセリエB昇格を決めた。 1989年にズデネク・ゼーマンが監督となったフォッジャは急激に強さを増していく。4-3-3でゾーンのプッレシングがプレーヤーにムーブメントを起こし、セリエAへ返り咲く。1991-92シーズンにはランバウディ-バイアーノ-ジュゼッペ・シニョーリの迫力あるトリオがスペクタクルなサッカーがセリエAで旋風を巻き起こす。後にこの快進撃はゼーマンランディア(ゼーマンの楽園)と呼ばれることとなる。しかし、シニョーリがラツィオへ引き抜かれてから勢いを失い、ズデネク・ゼーマンまでも失ったUSフォッジャはそこから暗黒期に入ることとなった。 パスクアーレ・カシッロが会長職に就きスポーツ・ディレクターにジュゼッペ・パヴォーネを就任させるも主力が抜けたUSフォッジャは1998年にはセリエC1に降格し、1999年にはセリエC2に転落していった。 プロフェッショニスティが運営するセリエCが主戦となっていた2002-03シーズンにミスター・フォッジャと言うべきパスクアーレ・マリーノを招き入れる。マリーノの手腕でロベルト・デ・ゼルビとミケーレ・パツィエンツァの才能を開花させ4年ぶりにセリエC1へ昇格させた。そして、2007年にはコッパ・イタリア・セリエCで決勝まで勝ち進み、ファイナルでも勢いのままクネオを3-1と下して優勝し初タイトルを手にする。 2009-10シーズンは、レガ・プロ・プリマ・ディヴィジオーネのジローネBで降格争いに巻き込まれてしまいプレイアウトに回ったがトータルスコアで勝ち越し残留。再建を担うべく2010年7月14日に会長がパスクアーレ・カシッロからマッテオ・ビアンコフィオーレに変わり、三度目の監督業となるズデネク・ゼーマンを就任させセリエAを狙うが、ゼーマンがわずか1年で退任すると、2010-11シーズン終了後には財政問題によりレガ・プロから翌シーズンの参戦を認められず、新チームACDフォッジャ・カルチョ(''Associazione Calcistica Dilettantistica Foggia Calcio'')として、セリエDから再スタートを切った。2012-13シーズンを終えレガ・プロ・セコンダ・ディヴィジオーネに昇格した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォッジャ・カルチョ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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