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フォレスト・シャーマン : ミニ英和和英辞書
フォレスト・シャーマン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

レスト : [れすと]
 【名詞】 1. rest 2. (n) rest
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フォレスト・シャーマン : ウィキペディア日本語版
フォレスト・シャーマン[ちょうおん]

フォレスト・パーシヴァル・シャーマンForrest Percival Sherman, 1896年10月30日-1951年7月22日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。アメリカ海軍史上、最年少の海軍作戦部長
空母任務群を指揮したフレデリック・C「テッド」・シャーマン中将(アナポリス1910年組)とは別人。この項ではフレデリックの方を「テッド・シャーマン」として表記する。
== 生涯 ==

=== 青年期 ===
フォレスト・パーシヴァル・シャーマンは1896年10月30日、ニューハンプシャー州メリマック教科書販売業を営む家庭に生まれる〔#谷光(2)p.554〕。長じてマサチューセッツ州に引越し、海軍軍人を夢見るも海軍兵学校(アナポリス)に入るためのアメリカ合衆国議会議員の推薦が得られず、一旦マサチューセッツ工科大学に進学し、推薦を得たあとの1914年にアナポリスに入学する。シャーマンの世代は第一次世界大戦参戦に伴って卒業が1年早められ、1917年に199名中2位の成績でアナポリスを卒業する〔#谷光(2)p.448,555〕。本来の卒業年次から「アナポリス1918年組」と呼称されたこの世代からはトーマス・スプレイグクリフトン・スプレイグジョゼフ・J「ジョッコー」・クラーク、、らがいる〔#Key, Jr.p.34〕〔#谷光(2)p.446,555〕〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、高田利種山本親雄らを輩出した46期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。卒業後は砲艦「」 (''USS Nashville, PG-7'') 、駆逐艦「」 (''USS Murray, DD-97'') に乗り組んで大戦終結まで船団護衛に従事〔#谷光(2)p.555〕。大戦終結後は戦艦ユタ」 (''USS Utah, BB-31'') 副長、駆逐艦「」 (''USS Reid, DD-292'') 乗り組みおよび「バリー」 (''USS Barry, DD-248'') 艦長を歴任する。
1921年、「ナッシュビル」および「マレー」時代のシャーマンの働きを評価していた少将(アナポリス1887年組〔:en:Newton A. McCully〕)の誘いにより、マックリーの副官に就く〔。また、航空を希望してペンサコーラのに入学し、1922年12月に航空パイロット免許を取得。中尉に昇進したシャーマンは第2戦闘群 (Fighting Squadron 2 (VF 2)) で勤務ののち、1924年にペンサコーラに戻って教官を務めた。を受講して1927年に卒業すると、指揮下の第2偵察群 (Scouting Squadron 2) に属する空母レキシントン」 (''USS Lexington, CV-2'') および「サラトガ」 (''USS Saratoga, CV-3'') で参謀、航空士官を務めた〔。
1930年からしばらく、少佐に昇進したシャーマンはアナポリスで航空担当の教官となり〔、また、第1戦闘群 (Fighting Squadron 1) 司令官ハリー・E・ヤーネル少将(アナポリス1937年組)の下で航海参謀を務め〔#谷光(2)p.556〕、1933年からはアーネスト・キング少将(アナポリス1901年組)が局長を務めるで、航空兵器担当課長となる〔。中佐に昇進した1937年から1938年までは空母「レンジャー」 (''USS Ranger, CV-4'') 航海長を担当し〔#谷光(2)pp.556-557〕、合衆国艦隊司令長官大将(アナポリス1899年組)の下での航空参謀も兼ねた〔#谷光(2)p.557〕。
1940年、シャーマンは海軍作戦部長ハロルド・スターク大将(アナポリス1903年組)の誘いにより戦争計画部に移る〔。当時の海軍作戦部はスタークをトップに作戦部次長少将(アナポリス1905年組)らがいて、シャーマンが入った戦争計画部のトップはリッチモンド・K・ターナー少将(アナポリス1908年組)だったが、ターナーは次第に絶大な権力を持ち、スタークやインガソルをも顎で使うようになり、スタークやインガソルは、ターナーが出した案をそのまま丸呑みにするようになる〔#谷光(2)p.386〕。1941年12月8日の真珠湾攻撃後、シャーマンはアメリカ・カナダ陸海軍合同会議メンバーにも選出された。
戦争計画部時代のシャーマンは、アルバート・ウェデマイヤー陸軍大佐が陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル陸軍大将の「勝利計画」に触発されて起草した「今次大戦におけるアメリカ陸軍動員のための青写真」に共鳴し、「1941年の勝利計画」を執筆して意見をともにした。シャーマンとウェデマイヤーが説いた「戦争計画」とは、「いまだ存在せず公にされてもいない戦争のための任務に対する心構えを解説し、来るべき平和産業の軍需産業への転用に際しての構成についても予言したものであり、将来的には陸海軍間が別個に計画したコミュニティをその上部組織が保証して、立案が上手く作用しなかった際には、その上部組織が共同で責任を取る」という内容のものだった〔この項目は、シャーマンの「1941年の勝利計画」と、著述家のチャールズ・E・カークパトリックの「1941年の勝利計画の執筆」からの引用である。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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