|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network) ・ 諸 : [しょ] 1. (pref) various 2. many 3. several ・ 諸島 : [しょとう] 【名詞】 1. archipelago 2. group of islands ・ 島 : [しま] 【名詞】 1. island ・ 進攻 : [しんこう] 1. (n,vs) attack
フォークランド諸島進攻(invasion of the Falkland Islands)とは1982年3月30日から4月3日にかけてイギリス領フォークランド諸島にアルゼンチン軍が侵攻、掌握した事件である。 この事件により、イギリスは機動艦隊を同諸島へ派遣。フォークランド紛争が勃発した。 == 背景 == 1833年にイギリス軍がフォークランド諸島を再占領して以来、領有権をめぐってイギリスとアルゼンチンは再び対立こそしたが、当時、アルゼンチンを治めていた自由主義者の政権はイギリスと友好関係を持つ傍ら、イギリスを牛肉などの輸出市場としていたため領有権を持ち出すことをしないまま150年近い時間が経った。 アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンのポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、1976年に保守派と結託した軍のクーデターでイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてペロン派(ペロニスタ)や左翼を徹底的に弾圧、ペロニスタや、その流れを汲む都市ゲリラ(モントネーロスやペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れ、1980年代に入っていよいよ頂点に達しようとしていた。 1981年にアルゼンチン政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために、フォークランド諸島の領有権問題に目をつけた。 1930年代のアルゼンチンにおける「独裁王」ことフアン・マヌエル・デ・ロサスの再評価と共にマルビナス諸島(フォークランド諸島のアルゼンチン側の呼称)奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていたがアルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国際連合を通じた交渉で穏健策をとり、1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1976年にアルゼンチンで軍事政権が成立して以降、アルゼンチン側は強硬姿勢を示し始め、フォークランド諸島への軍事侵攻計画の立案等も始まっていた。 既にフォークランド諸島においてアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島領有権問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。 1981年12月にガルチェリ大統領とアルゼンチン海軍司令官ホルヘ・アナヤ大将は極秘裏に会談してフォークランド諸島の掌握を決め、これに同空軍司令官と外相も同意。更に翌年1982年2月にイギリス側とのフォークランド諸島領有権問題の交渉が決裂したのを機に軍を利用した侵攻作戦の準備を決める。ガルチェリ政権は前もってアルゼンチン国内のマスコミなどを利用して領有権問題をクローズアップさせており、アルゼンチン国内ではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。 こうして民意を得たガルチェリ政権は1982年3月1日に『イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る』とイギリス側への最後通告ととれる声明を発表。フォークランド諸島への本格的な軍事侵攻に乗り出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォークランド諸島進攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|