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赤塚不二夫[あかつか ふじお]


赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄1935年昭和10年)9月14日 - 2008年平成20年)8月2日)は、日本漫画家
小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。1956年貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。その後石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
1935年(昭和10年)9月14日満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる〔赤塚不二夫略歴 〕。古北口は中国内地である河北省熱河省との境界であった万里の長城において山海関居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり〔世界大百科事典 〕、当時は満州国と中華民国冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。
父親である新潟県の農家出身の藤七は、地元の小学校を経て苦学の末陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となったが、1933年(昭和8年)に上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、古北口国境警察隊の特務警察官として中満国境地帯で現地人への宣撫工作や、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍八路軍等の抗日ゲリラ国民革命軍第二十九軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた〔赤塚不二夫の満州 〕。父は非常に厳格でなおかつ権威的であり、「のらくろ」や中島菊夫の「日の丸旗之助」〔(外部リンク)〕といった漫画を読むことを禁じられたり箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらずに現地の村人からも密告されることもなく、終戦直後に報復として赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。
当時の現地での父親との体験について赤塚は著書『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』において、
と回想している。
1945年(昭和20年)、10歳の時に終戦を迎え、奉天で奉天鉄西消防署署長になっていた父親は終戦直前に侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留された。奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)6月15日に葫芦島から大発動艇で4日かけて(赤塚にとって初めて見る日本である)佐世保港引き揚げ引き揚げ、そして祖国へ 〕、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。赤塚は1994年のインタビューで、と回想している〔自然体で生きる天才漫画家が話す人間の愛。子どものときは差別なんてしない ―― それでいいのだ!  赤塚不二夫氏 〕。帰国までに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女の名・綾子を授けた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という〔武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P.69〜74)より。〕〔2008年8月13日付『しんぶん赤旗』掲載・石子順「赤塚不二夫さんを送る」より。〕。母親は大日本紡績郡山工場で働くようになり、赤塚は小学校に編入し小学5年生となった。一家が満州帰りとして差別を受ける中、2学期の頃貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する〔。12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家(以前満州で父が危険な辺境勤務をしている間に1年間預けられていたことがある)である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。このとき赤塚は後の自身に大きな影響を与えた体験としてと回想している〔「青春紀行」『異国の丘新潟』(昭和57年読売新聞大阪本社版掲載) 〕。赤塚が14歳になったその年の暮れに父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった法讃寺 (父の実家である赤塚家はこの寺の檀家であったらしく、後に赤塚の両親が死去した際この寺で葬式が行われた。)に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という〔。
後に赤塚は本籍地が新潟県であったことからしばしば「新潟県出身の人物」とされる場合もあったが、赤塚本人は新潟での「閉鎖性と排他性」からくる強い差別意識による過酷ないじめや差別を経験したこともあって、「新潟の人には悪いけどオレの故郷はあのデッカイ満州だ」と明言している。
1952年に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職した。仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートン駅馬車チャーリー・チャップリン喜劇に感銘を受けたという〔〔。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。
18歳だった1954年頃に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川エビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫よこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった(投稿欄に住所も載せる緩やかな時代だった)。
『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし〔最初、よこたと共に若木書房に持ち込みにいったが、よこたの漫画のみ採用され二件目に行ったのが曙出版である。〕、1956年(昭和31年)、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤塚不二夫」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujio Akatsuka 」があります。




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