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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フジノパーシアは日本の競走馬。主戦騎手は大崎昭一。おもな勝ち鞍は1975年(昭和50年)の天皇賞(秋)及び1976年(昭和51年)の宝塚記念・高松宮杯。半弟に兄と同じ天皇賞(秋)を制したスリージャイアンツがいる。同期にキタノカチドキ・コーネルランサー・タカエノカオリ・トウコウエルザ・サクライワイ・イットー・アイフルがいる1974年(昭和49年)世代。長距離系種牡馬パーシアの代表産駒。同期のサクライワイに勝るとも劣らぬ道悪巧者でもあった。 * 馬齢については原則旧表記(数え)とする。 == 戦績 == 3歳冬にデビュー戦を勝利したフジノパーシアだったが、脚部不安の為に休養に突入、結局クラシックにはトライアルレースにすら出走せずに終わった。 4歳春に復帰し、5歳早々にオープン入りすると2月の東京新聞杯で重賞初制覇となった。更に、得意の不良馬場となった天皇賞(秋)では2番人気に支持されると、中団追走から4角手前で一気にスパートして先頭に立ち、1番人気に支持されたキクノオーが直線で伸び悩む〔当時の天皇賞(秋)は「1番人気が勝てない」レースとして有名であった。直近の1番人気での優勝馬は1965年(昭和40年)のシンザンであり、1971年(昭和46年)以降の1番人気馬は複勝(3着以内)にすら絡まなくなっていた。結局、1976年以降も3200m時代には1番人気馬が勝利することはなかった。〕のを尻目に、同期のカーネルシンボリやトウコウエルザらの追撃も許さず優勝、八大競走勝ち馬となった〔〕。次走・有馬記念ではやはり同期のキタノカチドキらを抑えて1番人気に支持されたが、この年の日本経済賞の優勝馬ホワイトフォンテンを気にしすぎた〔ホワイトフォンテンとは相性が非常に悪かった。実際、ホワイトフォンテンが制した日本経済賞にはフジノパーシアも出走していた。また翌年(1976年)のAJCCでも、やはりホワイトフォンテンに逃げ切られている。〕のを勝負師の異名を持つ加賀武見騎乗のイシノアラシに突かれ、2着に終わった。 6歳時は宝塚記念〔1976年は京都競馬場で開催された。〕・高松宮杯を連勝した他、春先のダイヤモンドステークスにも勝利した。秋は天皇賞出走権が無い(当時の天皇賞は勝ち抜け制)事もあり、12ハロンのワシントンDCインターナショナルに日本代表で参加した。だが、プレゼンテイターとして来ていたこの時代屈指の美人女優として名を馳せたエリザベス・テイラーが巻き起こす騒ぎに冷静さを欠いてしまい〔エリザベス・テイラーの取材を目的とする記者が多数来ており、彼らが競走馬たちのことをまるで気にせず、馬が近くにいても遠慮なくフラッシュを焚いて写真を撮るなどしていたという。また来場者数も記録的だった上に、エリザベス・テイラー目的で来場していた者が少なくなかったと言われている。このレースでも手綱を取った大崎は、後に「この騒ぎが無かったら2着には入っていただろう」と語っている。〕、得意の不良馬場にも関わらず6着に沈んだ。帰国後の有馬記念では、新たな最強世代TTGの二頭・トウショウボーイとテンポイントがおり、結局この2頭にはおろか天皇賞を制したばかりの同期のアイフルにまでも先んじられる8着に敗退、このレースを最後に引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フジノパーシア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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