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フダイビーヤの和議(صلح الحديبية)は、628年に預言者ムハンマドとマッカ(メッカ)のクライシュ族の間で結ばれた和議。フダイビーヤの盟約などとも表記される。和議はマッカ郊外の小村フダイビーヤで締結され、交渉の場であるフダイビーヤはマッカの聖域の境界となった〔後藤「フダイビヤの和議」『新イスラム事典』、429頁〕。 == 背景、成立までの過程 == 624年のバドルの戦いでイスラム軍はマッカのクライシュ族に勝利を収め、625年のウフドの戦いではクライシュ族が勝利するが、ハンダクの戦いではクライシュ族はムハンマドに決定的な勝利を収める事ができなかった〔。ムハンマドに決定的な勝利を収められなかったクライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた〔佐藤『イスラームの歴史』1、72-73頁〕。 628年3月、夢に促されたムハンマドは信徒を連れてマッカへの小巡礼に発った。クライシュ族の襲撃を危ぶんだムハンマドは、アラブ人と遊牧民を巡礼に動員する〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、121頁〕。巡礼に参加したムスリムの人数1,400人〔前嶋『イスラムの時代』、80-81頁〕〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、28頁〕、あるいは1,600人〔と伝えられている。クライシュ族からの攻撃を想定して武装を進言する者もいたが、ムハンマドはあくまでも巡礼が目的であるとして戦闘の準備は行わず、儀式に使う家畜を伴った〔小杉『イスラーム帝国のジハード』、136頁〕。武装したクライシュ族の兵士が進路で待ち受けている報告を受けたムハンマドはフダイビーヤに移動し、交渉に備えた〔。 マッカのクライシュ族は、ムハンマドの巡礼を武力で妨害すれば神聖月の慣例を破ることになり聖地の守護者としての権威は大きく低下し、巡礼を認めるとムハンマドへの屈服の意思を表す状況に陥った〔。クライシュ族からフダイビーヤのムハンマドの元にマディーナ(メディナ)への撤退を求める使者が送られ、マッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、129頁〕〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、28-29頁〕。ムハンマドはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを使者として派遣するが、ヒラーシュの伝言を聞いたマッカ側は彼の乗ったラクダを斬殺し、ヒラーシュはフダイビーヤに戻った。ヒラーシュが帰還した後、クライシュ族はフダイビーヤの宿営地を襲撃するが失敗に終わった。 次にムハンマドはウマルをマッカへの使者に選んだが、ウマルは自分がマッカのクライシュ族と敵対していたことを理由に任務を辞退し、ウスマーンが使者として派遣された〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、130頁〕〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、30-31頁〕。ウスマーンから伝言を受けたマッカ側はウスマーンにタワーフ(カアバ神殿の周囲を回る儀礼)を認めたが、ウスマーンはマッカからの提案に妥協をしなかった〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、31-32頁〕。ウスマーンはクライシュ族の元に監禁され、ムハンマドの元にウスマーンが殺害された知らせが届けられた〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、130-131頁〕。ムハンマドに従っていたムスリム達は激怒し、ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従うよう、樹下の誓い(バイア)を行わせた〔〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、32頁〕。解放されたウスマーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した〔森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、32-33頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フダイビーヤの和議」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Treaty of Hudaybiyyah 」があります。 スポンサード リンク
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