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フマーユーン(, Humāyūn, 1508年3月17日 - 1556年1月24日)は、北インド、ムガル帝国の第2代君主(在位:1530年- 1540年、1555年- 1556年)。父は初代皇帝バーブル、母はマーハム・ベーグム。 == 生涯 == === 即位まで === 1508年3月17日、ティムール朝サマルカンド政権の君主バーブルとマーハム・ベーグムの間に長男として、アフガニスタンのカーブルで誕生した。 1508年、フマーユーンはトルコ・モンゴル式の伝統に倣い、バダフシャーンとカーブからアムダリヤ川に至るカーブル北東部を任地として与えられ、その地を統治した〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.47〕。 1526年4月21日、父バーブルがデリー近郊のパーニーパットの戦いでローディー朝のイブラーヒーム・ローディーを破った際、フマーユーンもバダフシャーンから引き連れてきた軍勢と参加し、右翼に布陣していた〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.31〕〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.47〕。この戦いにおける勝利により、デリー・スルターン朝に代わりムガル帝国(ムガル朝)が成立し、バーブルの後継者である彼は皇太子となった。 また、同年夏にはバーブルは大征服のあとの当然の慣習として、勝利を祝う形で財宝を息子や家臣に分配した〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p34〕。息子フマーユーン勝利に大きく貢献したということで700万ルピーと宝物を貯蔵した蔵を与え、何人かの高官はそれぞれ100万ルピーを与え、そのほか勝利に貢献した者たちには何かしらの褒賞を与えた〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.35〕。 フマーユーンはデリー、アーグラ北部から北ビハールまでを征服したが、インド征服後はアフガニスタンへと戻った〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.48〕。彼は中央アジアから攻めてくるウズベク族を辺境で防衛し続けた〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.48〕。また、彼はサマルカンドやブハーラーへの遠征軍を整えていたと言われている〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.48〕。 一方、バーブルは晩年、庭園を作り、書物を著し、詩作にふけるなど楽しみの時間に費やした。このころから、バーブルは体調を崩すようになっていき、しばしば病床についた。だが、1530年にフマーユーンがカーブルで激しい高熱に襲われた末、危篤状態という重態となり、母マーハムが彼をアーグラまで連れて行った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.175〕。フマーユーンの姉妹グルバダン・ベーグムは「この母と子はイエスとマリアのように、アーグラを出発した」と書き残している。 その時のバーブルの深く悲しんだ様子と彼の奇妙な最後を、彼の娘グルバダン・ベーグムはこう記している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.178〕。父バーブルはどうしたらよいかとお気に入りの相談役に意見を求めると、フマーユーンが助かるためには自分が持っている物の中で最も価値の高いものを捨てなければならないと言った。バーブルは「自分こそが最も価値の高いものであるとして自ら息子の犠牲になろう」と述べて祈りを唱え、フマーユーンの寝床の周りを3回歩いた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.175-178〕。すると、フマーユーンはたちまちのうちに病から回復し、バーブルが逆に病に倒れて、12月26日に死去した。 こうして、同年にフマーユーンは父バーブルの後を継ぎ、新たな皇帝となった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.178〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フマーユーン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Humayun 」があります。 スポンサード リンク
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