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フマユーン廟 : ミニ英和和英辞書
フマユーン廟[びょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フマユーン廟 ( リダイレクト:フマーユーン廟 ) : ウィキペディア日本語版
フマーユーン廟[ふまーゆーんびょう]

フマーユーン廟(、、)は、インド共和国の首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(Nasiruddin Humayun、همايون)の墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され〔近藤(1979)p.19〕、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。
== 沿革 ==

ムガル帝国第2代皇帝フマーユーン は、1540年ビハールの地をしたがえたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍でのちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアーグラデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。
フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーグム(ハージー・ベーグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した〔「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.52〕〔ムガル帝国では、しばしば皇帝の存命中に墓園の造営が開始されている。前嶋・石井(1978)〕。時代は、アクバル大帝治世の前半にあたっていた。
伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤースッディーンとその父ミラーク・ギヤースッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたという〔「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.54〕〔皇帝の死後9年目に完成したとも、また、皇帝没後9年目に工事が始まり、アクバル帝治世の14年目に完了したともいわれる。ユネスコ世界遺産センター「デリーのフマユーン廟」(1997)〕。その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれている。
1993年ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界遺産文化遺産)に登録された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フマーユーン廟」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Humayun's Tomb 」があります。




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