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フライングアップルは日本の競走馬である。おもな勝利に中央競馬で2007年に行われた重賞のスプリングステークス(JpnII)がある。馬名の由来は「空飛ぶリンゴ」。 山本英俊オーナーに依頼された角居勝彦調教師がアメリカのセールで落札したため本来は角居厩舎所属となる予定だったが、藤澤和雄調教師が「良さそうだからもらった」というエピソードがある。 == 戦績 == デビュー戦は2006年9月10日、札幌競馬第5競走・芝1800mで行われた2歳新馬戦。騎手は藤沢和雄厩舎所属の塚田祥雄で1番人気(2.1倍)に支持されたもののフサイチオフトラの2着に敗れる。その後、札幌の2歳未勝利戦、福島のきんもくせい特別を連勝し、重賞初挑戦となった東京スポーツ杯2歳ステークスでは4番人気ながらもフサイチホウオーの2着と健闘。次走のGIの朝日杯フューチュリティステークスでは3番人気に支持され4着となり2006年を終える。 2007年の初戦共同通信杯では、フサイチホウオーと再戦したが3着に敗れる。次走のスプリングステークスでは、きんもくせい特別以来の1番人気に支持される。初騎乗となった横山典弘は今までこの馬が取ってきた好位からのレースではなく、スタートで出遅れた影響もあり後方待機策でレースを進め、重賞初勝利を挙げた。しかし、皐月賞、東京優駿の両レースでは見せ場を作れず、12着、10着に敗れた。3ヶ月間の放牧後に古馬との初対戦となる札幌記念に出走を予定していたが、馬インフルエンザ騒動によりレース開催が中止、9月2日に延期されたため出走を回避し、セントライト記念に出走を変更するも体調が良くなく回避し放牧に出された。その後1年近い放牧から帰厩し、カシオペアステークスに出走したが、7着に敗れた。続く鳴尾記念では8着に敗れた。続くファイナルステークスでは4着だった。 2009年は巴賞から復帰したが、4着に敗れた。続く朱鷺ステークスでは2着、ポートアイランドステークスでは3着と好走した。11月15日のオーロカップでは好位集団でレースを進めるも4コーナー付近で失速、15着と惨敗した。続くキャピタルステークスでは見せ場なく11着と大敗した。その後、初のダート戦となった師走ステークスに出走したが、見せ場なく13着に終わった。 2010年は初のスプリント戦となる淀短距離ステークスから始動。中団追走から追い上げてエイシンタイガーの2着に入った。続く春雷ステークスでも前走同様の競馬で2着となった。バーデンバーデンカップでは中団追走も直線ではまったく伸びず13着と大敗した。UHB杯では後方から追い込んでくるものの4着だった。京成杯オータムハンデキャップでは2番人気に推され、好位追走から脚を伸ばしてくるも4着、ポートアイランドステークスでは好位キープも後方から追い込んできたダノンヨーヨーにかわされて2着、ラピスラズリステークスでは好位追走も直線で伸びきれず7着、2010アンコールステークスでは14着と惨敗が続いた。 2011年はオーストラリアトロフィーから始動したが10着。続くメイステークスでは好スタートから逃げる展開になったが直線で一杯となって15着、バーデンバーデンカップでは好位追走も直線で伸びきれず6着。連闘で夏至ステークスに出走したが、フィフスペトルの8着。朱鷺ステークスでは中団後方から脚を伸ばしてくるも7着、京成杯オータムハンデキャップでは先行するも12着、信越ステークスでは10着、パラダイスステークスでは12着と惨敗が続いた。ファイナルステークスでは後方から追い込んで2着となった。 2012年はニューイヤーステークスから始動したが見せ場なく12着。続く六甲ステークスでは後方から追い込んでくるものの5着。連闘で挑んだ大阪杯では先行するも9着だった。休養をはさんで8月のUHB賞は後方から追い上げるも5着。その後3走したが勝てず、2013年4月20日付で競走馬登録を抹消された。引退後は八王子市の八王子乗馬倶楽部で乗馬となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フライングアップル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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