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フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(古典ラテン語:、331/332年 - 363年6月26日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:361年11月3日 - 363年6月26日)である。コンスタンティヌス朝の皇帝の一人で、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥に当たる。最後の「異教徒皇帝」として知られる。異教〔「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。後藤。〕復興を掲げキリスト教への優遇を改めたため、「背教者()」とも呼ばれる。 == 生涯 == === 誕生から副帝登用まで(331年 - 355年) === 331年または332年〔331年が有力とされる。月日については不明。バワーソック、44頁。〕、コンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスとその妻バシリナの間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により家族を暗殺された。ユリアヌスとその兄コンスタンティウス・ガッルスは幼少のため見逃された〔ガッルスは当時、病で間もなく死ぬと思われていた。バウダー、104頁。〕。ユリアヌスは(おそらくガッルスも共に)ビテュニアに住まう母方の祖母のもとに預けられ〔ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、ニコメディアで司教エウセビオスの手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。Tougher, p.14.〕、事実上軟禁された状態で養育された。軟禁生活では、キリスト教会の『聖書』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった宦官マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や神話も教えられていた。 おそらく342年になると、ユリアヌスとガッルスは皇帝領のマケッルムへ移された。マケッルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウスの蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。 348年、2人はコンスタンティノポリスに召還され、6年間の追放が終わった。ガッルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで修辞学を学んだのち、ニコメディアへ留学した。この地で哲学者リバニオスの講義を、間接的にではあるが受けることができ〔リバニオスの話を直接聞くことはコンスタンティウスに禁じられていたため、代理の者にノートを取らせていた。Tougher, p.16.〕、ユリアヌスは新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。 351年、ガッルスは東方のサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシオスや、エペソスのマクシムスなど、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねてアテナイに赴いている。 354年、副帝であったガッルスがコンスタンティウス2世に処刑された〔ガッルスの統治が評価しがたいものであったことはユリアヌスも認めており、処刑はともかく副帝解任には正当性があった。バワーソック、62頁。〕。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いをかけ、メディオラヌム(現ミラノ)の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃エウセビアが唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。 メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者プロハイレシオスから手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる〔Tougher, p.18.〕。 355年後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなくガリアでの問題にも直面していた〔バワーソック、61頁。〕。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガッルスに代わる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった〔バワーソック、62頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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