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フランクロイドライト : ミニ英和和英辞書
フランクロイドライト[らんく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランク : [らんく]
 【名詞】 1. rank 2. (n) rank

フランクロイドライト ( リダイレクト:フランク・ロイド・ライト ) : ウィキペディア日本語版
フランク・ロイド・ライト[らんく]

フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wright1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカ建築家
アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなす事もある)。
== 生涯 ==
ウィスコンシン州に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴへ移り住んだ。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、ダンクマール・アドラールイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。
アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにあった。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。
独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。
ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でもってアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1936年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係であった。
当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。
1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセン〔この名はライトの血筋とタリエシンに由来している。彼の祖父リチャード・ロイド=ジョーンズはユニテリアン派伝道師だった。ライトの自伝によれば祖父はドルイドの血筋を受け継いでおり祖父自身もドルイドの長であった。ここから着想を得たライトはウェールズ風の名前としてタリアセンを選んだ。ライトはタリアセンをドルイドであり、かつアーサー王円卓の騎士であるとも見做していた。〕の設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事であった。
1913年帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工した。
数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。
そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランク・ロイド・ライト」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Frank Lloyd Wright 」があります。




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