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フランシス・ジョセフ・オドール(Francis Joseph O'Doul, 1897年3月4日 - 1969年12月7日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身のプロ野球選手(投手、外野手)・監督。日本では、姓はオドゥールとも表記される。 == 経歴 == === アメリカ球界における経歴 === サンフランシスコのベイビュー高校卒業後、ニューヨーク・ヤンキースと契約。当初は投手であった。当時左投げ投手は珍しく、「レフティ(左利き)」のニックネームをつけられた。にメジャー昇格。その後、にボストン・レッドソックスに移籍したシーズンまで実働4シーズン投手としての記録が残っている。しかし、彼の打力に注目した首脳陣は、投手ではなくオドールを野手として起用するようになる。 投手を断念してから数シーズン、オドールはレッドソックスやニューヨーク・ジャイアンツのAAA級でくすぶっていたが、に初めて規定打席に達して打率3割をマーク。翌にはフィラデルフィア・フィリーズに移籍して打率.398をマークし首位打者を獲得、打撃に開眼する。その年マークした254安打はナショナルリーグ記録であり、両リーグ合わせてもイチロー、ジョージ・シスラーに次いで史上3位。 ブルックリン・ロビンスに移籍したも打率3割をキープ、さらにはには2度目の首位打者に輝くなど5年連続打率3割をマークした。その後は出場機会は減少。に再度ニューヨーク・ジャイアンツに復帰し、同年のワールドシリーズ制覇。のシーズン限りで引退。 引退後、1935年から23年間にわたって、マイナーリーグのパシフィック・コーストリーグ(AAA級)で監督を務めた。その内訳は、サンフランシスコ・シールズ(1935年 - 1951年)、サンディエゴ・パドレス〔メジャーリーグのサンディエゴ・パドレス(1969年 - )の前身。〕(1952年 - 1954年)、オークランド・オークス(1955年)、バンクーバー・マウンティズ(1956年)、シアトル・レニアーズ(1957年)である。シールズでは1935年と1943年から1946年までとリーグ優勝を遂げている。 ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移転すると、オドールは1958年から1961年まで臨時の打撃コーチを務めた〔THE BASEBALL BIOGRAPHY PROJECT (英語)〕。 シールズの監督時代、選手の一人に若き日のジョー・ディマジオがいた。後年、ディマジオがニューヨーク・ヤンキースの大選手になったあと、オドールは「ディマジオを自分の功績にしないでほしい。気を利かせて放っておいただけだから」とコメントしたが、これは謙遜によるものだった〔BaseBall reference.com (英語)〕。ジャイアンツの臨時コーチ時代にはウィリー・マッコビーも指導している。 晩年は野球界から去り、サンフランシスコのゲイリー大通りという目抜き通りにレストラン兼スポーツバーを出店、1969年にこの世を去るまでサンフランシスコを離れなかった。この店は今もなお「レフティ・オドールのレストラン&カクテルラウンジ〔Welcome to the Lefty O'Doul's Restaurant & Cocktail Lounge in San Francisco, CA 94102 (英語)〕」として営業を続けている。野球選手としては流浪の選手であったが、生粋のサンフランシスコ人であったといえる。その功績をたたえて、1981年にはサンフランシスコ・ベイエリアにゆかりのスポーツ関係者を対象とした「ベイエリアのスポーツ殿堂」(Bay Area Sports Hall of Fame)に表彰された。また、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地AT&Tパークの近くの入り江「マッコビー・コーブ」にかかる橋には「レフティ・オドール橋」という名前が付けられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レフティ・オドール」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lefty O'Doul 」があります。 スポンサード リンク
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