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フランク・ハワード(Frank Oliver Howard, 1936年8月8日 - )は、アメリカ合衆国・オハイオ州コロンバス出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 大学時代は、野球の他にバスケットボールでも全米選抜チームに選ばれた実力があり、フィラデルフィア・ウォリアーズ(現在のゴールデンステート・ウォリアーズ)からドラフト指名も受けていたが、野球を選び、ロサンゼルス・ドジャースと契約する。9月10日にメジャーデビュー。その後もしばらくはマイナーリーグとメジャーを往復するが、にはレギュラーに定着し、23本塁打、77打点を記録し、ナ・リーグルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選出された。には33本塁打・117打点と活躍するが、その後2年低調に終わったこともあり、1965年にワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)に移籍する。 5月12日から5月18日にかけて、6試合連続・20打数で10本塁打を打った。1週間で10本塁打は現在でもメジャータイ記録。また、これをはさんで16試合で13本塁打を打ち、これもにアルバート・ベルが記録するまでなかった。この年は44本塁打で初の本塁打王に輝き、MLBオールスターゲーム初出場も果たした。には44本塁打・132打点を記録し、アメリカンリーグの本塁打王・打点王の二冠に輝く。四球132もリーグ1位であった。タイガー・スタジアム史上3人しかいない、外野席最上段の屋根直撃弾を放った(残りの2人はハーモン・キルブルーとセシル・フィルダー)。 セネタースはにテキサス州に移転してテキサス・レンジャースとなったが、この年から成績が急降下する。シーズン途中にデトロイト・タイガースに移籍したが、は打率.256、12本塁打に終わった。 シーズン終了後、太平洋クラブライオンズと契約した。メジャー通算1774安打、382本塁打を記録しており、当時日本球界に来た外国人選手の中では最高の実績であった。特にMLB通算本塁打382本は2012年シーズン終了後東北楽天ゴールデンイーグルスにアンドリュー・ジョーンズが入団するまで日本球界でプレイ経験のある外国人選手としては歴代最多であった。 しかし膝の故障のため、の開幕戦1試合に出場したのみで後は出場がなく5月には帰国した。 身長は約2メートルを超える巨漢でありながら性格は温厚で「足長おじさん」の愛称で慕われていた。 引退後はにサンディエゴ・パドレスの監督に就任した。この年のパドレスは後に日本でプレーするランディ・バースやルパート・ジョーンズにホアン・アイケルバーガー、以前に日本でプレーしていたフレッド・クハウルアが在籍していた。その年はシーズン途中に選手会の50日間に及ぶストライキが発生し、シーズンが前後期のスプリットシーズン制にされたが、いずれも最下位に終わり、一年限りで解雇された。途中にニューヨーク・メッツの監督に就任するが、こちらでも最下位に終わり、同年限りで解雇された。2回にわたる監督の通算成績は93勝113敗であった。前後してミルウォーキー・ブルワーズ(~、~)、メッツ(~1983年途中、~)、シアトル・マリナーズ(~)、ニューヨーク・ヤンキース(・~)、タンパベイ・デビルレイズ (~)でコーチを務めた。以後はヤンキースで育成インストラクターを務めている。 にワシントン・ナショナルズが移転し、首都ワシントンDCに34年ぶりにメジャー球団が戻ったが、初試合の試合前の始球式の際にレフトの守備位置につき、観客から大歓声を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランク・ハワード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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