|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network) ・ ランク : [らんく] 【名詞】 1. rank 2. (n) rank
フランク・マルタン(Frank Martin、1890年9月15日 - 1974年11月21日)は、フランス語系スイス人のプロテスタントの作曲家。オランダでも活動した。息子のクリスティアン・フェヒティンクは指揮者。 == 生涯 == フランク・マルタンはプロテスタントの牧師シャルル・マルタンの子としてジュネーヴで生まれた。10人きょうだいの末っ子。〔LP『マルタン:七つの管楽器、ティンパニ、打楽器および弦楽合奏のための協奏曲/弦楽合奏のためのエチュード』(エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、独奏者および弦楽合奏、1979年、キングレコード)ライナーノーツ(小林利之)〕就学前よりピアノを弾き、即興演奏をたしなむほどの早熟ぶりであった。9歳のとき、まだ正規に和声法や歌曲形式を学ばずに歌曲を作曲するが、いずれも有節歌曲であった。12歳のときにバッハのマタイ受難曲の演奏に接して強い感銘を受け、バッハを精神的な師として仰ぐようになる。 2年間ジュネーヴ大学で数学と物理学を学ぶかたわら、作曲とピアノをヨーゼフ・ラウバーに師事。1918年から1926年までチューリヒやローマ、パリを転々と過ごした。この頃の作品は、独自の音楽語法の探究であり、まだフランクやダンディ、ラヴェルの影響下にあった。 1926年にジュネーヴ室内楽協会 (Société de Musique de Chambre de Genève) を設立し、ピアニストやチェンバロ奏者として10年間の活動を続ける。この間に、ジャック=ダルクローズ研究所で音楽理論や即興演奏を教え、ジュネーヴ音楽院で室内楽を指導した。1933年から1940年までテクニコン・モデルヌ・ド・ミュジック (Technicum Moderne de Musique) 校長に、1942年から1946年までスイス音楽家協会総裁に就任。 1946年よりオランダに移住。スイス時代に公務に追われて専念できなかった作曲に、多くの時間を割くようになる。アムステルダムに10年暮らした後、ナールデンに定住した。 1950年から1957年までケルン市立高等音楽学校で作曲の教鞭を執る。その後は教育活動を放棄し、作曲に集中するが、その合間に室内楽の演奏旅行や指揮にも携わり、録音も残した(いずれの場合もたいていは自作に関係してのものだった)。 絶筆のカンタータ「かくて生は勝利す ''Et la Vie l'Emporta'' 」を仕上げてから10日後にナールデンで世を去った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランク・マルタン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|