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フランク馬場 : ミニ英和和英辞書
フランク馬場[ば]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランク : [らんく]
 【名詞】 1. rank 2. (n) rank
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
馬場 : [ばば]
 【名詞】 1. horse-riding ground 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

フランク馬場 ( リダイレクト:フランク・正三・馬場 ) : ウィキペディア日本語版
フランク・正三・馬場[ふらんく しょうぞう ばば]
フランク・正三・馬場(フランク しょうぞう ばば、Frank Shozo Baba、1915年1月3日 - 2008年1月16日〔)は日系アメリカ人二世、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)として日本に来て民間情報教育局(CIE)のラジオ課の一員として働いた。1945年(昭和20年)12月から日本に来て日本放送協会(NHK)の戦後の放送番組企画や日本の民間放送設立案に尽力した人物。生後半年から12歳半の約12年間、29歳から36歳の約6年間、46歳から約4年半と3回にわたり長期間日本に滞在した。
== 大学卒業の頃まで ==
1915年1月3日、オークランドで生まれ、正月3日から正三のミドルネームを名付けられた。父は完(たもつ)。母の清(きよ)は香川県栗熊村生まれで高松市師範学校卒業した教師であった。完は香川県丸亀市綾歌町岡田(旧綾歌郡岡田村)に生まれ、大阪朝日新聞に勤務したが、1904年に職業をジャーナリストとするパスポートアメリカ合衆国へ移住。サンフランシスコ・クロニクルサンフランシスコ・エグザミナーに職を求めるも適わず、アルバイトなどをしたが、1913年に一旦日本に戻り、清と結婚して再渡米した。
渡米後の生活は苦しく、母・清は実母の「子どもが生まれたら日本へ送ってよこしな。ばばが育ててやる」との言葉を思い出し〔石井『日本の放送をつくった男』44頁〕、生後6か月の正三は日本に帰る同県人に託され、日本に来て綾歌郡栗熊村の祖母のもとで12歳半まで過ごした〔東西南北に堤山、高見山、猫山、飯野山を見る地。〕。その後、帰米した正三は、リンカーン小学校、中学を経て、オークランド技術高校カリフォルニア大学バークレー校の経済学部を卒業した。大学では日本文学も学び弁論大会にも出ている。
ロサンゼルスの農産物卸組合に職を得たが、真珠湾攻撃後に失職。日系人の強制収容への可能性もあった娘と結婚し、妻と共に収容を免れた。周りの多くの日本人が収容されるが、大学で日本文学を学んだ馬場は、カリフォルニア大学バークレー校内に海軍将校のための新設の日本語学校の教師に招かれ、直後に「翻訳者免許試験」にも合格し、公務員の資格を得た。オークランドで日本旅館を営んでいた完と清はアリゾナ州ヒラ・リバー収容所に収容され、完はそこで死去、清は戦後解放された。また妻の両親はワイオミング州ハートマウンテン収容所に収容されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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