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フランコ・バレーシ : ミニ英和和英辞書
フランコ・バレーシ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フランコ・バレーシ ( リダイレクト:フランコ・バレージ ) : ウィキペディア日本語版
フランコ・バレージ[ちょうおん]

フランコ・バレージ(Francheschino "Franco" Baresi, 1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー。1980年代から1990年代にかけて活躍し、現役生活の通じてACミランでプレーを続けた。長年、彼が背負った背番号「6」は、引退後にクラブの永久欠番となっている。
2007年には同クラブのヴェレッティ(19歳以下のユースチーム)で後進の指導にあたっている。
実兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)も元インテル所属、元イタリア代表のサッカー選手。家族は妻と長男の他に、養子が一人いる。
==経歴==
1960年5月8日イタリアロンバルディア州ブレシア県トラヴァリアートに生まれる。
1974年、セリエAの下部組織への入団を希望し各クラブのテストを受けるが、最初に受験したアタランタBCは当時164cmで華奢だった彼を不合格とした。次に実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、再び身体が小さいという理由で不合格。そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに入団する。高いディフェンス能力を買われてということもあったが、当時のACミランに若いディフェンダーが不足していたという事情もあったという。この矢先、同年に父が交通事故により急死した。幼少時に母を亡くしていたバレージは14歳の若さで両親を失った。
1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。同年4月23日に対エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾る。
1979年、2年目にしてレギュラーポジションを奪取しリーグ戦30試合に出場。期待の若手として注目を集め、当時の主将でありこのシーズン限りで現役を退いたジャンニ・リベラと共にリーグ優勝に貢献した。リベラの引退後、バレージはクラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し事件に関与したとされたACミランはSSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった。
思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。しかし、スキャンダルの余波で有力選手が次々と移籍。クラブ自体の人気も落ち、収益も減収した。このシーズンにはバレージ本人もウイルス性疾患を患い数ヶ月戦列を離れた。これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった。オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから移籍話が届くが、その一切を断りミランに残留。この決断によりバレージはミラノのファンの心を掴んだ。
1982年W杯スペイン大会の代表メンバー(背番号2)に選ばれ優勝を経験するが、自身の出場機会はなかった。
1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続き人気も下降。当時のインタビューによれば、選手たちへの給料配布も週給となり、経営難から支払いが止まることもあったという。
1986年、実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変。豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。サッキ監督の提案するゾーンプレスに当初はチームメイトらは懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニアレッサンドロ・コスタクルタとともに強固なバックラインを形成した。このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを抑えスクデットを獲得した。
1988年フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣と「オランダトリオ」にを中心とした攻撃陣の活躍もあり、UEFAチャンピオンズカップのタイトルを獲得。以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。
イタリア代表としてもバレージはその能力を発揮し、1990年W杯イタリア大会では全7試合にフル出場し3位。1994年アメリカ大会は大会中に膝を痛め一時的に戦線離脱するもすぐに手術を行い、決勝の対ブラジル戦で復帰。病み上がりとは思えないパフォーマンスでブラジル攻撃陣を抑えたが、PK戦でバレージ自身も失敗しチームは敗れ準優勝に終わった。バレージが代表キャリアを終えることになるのは、同大会決勝の次の試合となった欧州選手権・予選スロベニア戦においてである。この試合を最後にバレージは代表から退き、主将の座はパオロ・マルディーニが引き継ぐことになった。
94-95シーズン限りで現役を引退する決意を固めていたが、周囲の説得でその後2年間現役を続行した。また、94-95シーズンの開幕戦では当時ジェノアに所属していた三浦知良との競り合いで、三浦が鼻骨を骨折する一幕があった(2013年6月9日、国立競技場でおこなわれたJリーグOB選抜 VS イタリアOB選抜の際、三浦に約20年ぶりに謝罪した)。
1997年6月23日、自身の体力の衰えを理由に現役引退を発表。最後のシーズンは36歳というサッカー選手では高齢でありながらシーズン26試合に出場したが、クリスティアン・ヴィエリの突破を許すなど、体力の衰えは顕著となっていた。同一クラブにおける通算試合出場数「541」は、セリエA歴代3位の記録である(2008年11月現在。1位はパオロ・マルディーニ、2位はインテルのハヴィエル・サネッティ)。
引退後バレージはACミラン・プリマヴェーラ(20歳以下)のコーチとクラブの名誉副会長職に就任。またバレージの功績に敬意を表し、彼の代名詞ともなっていた背番号「6」は永久欠番とされた。
2006年からはACミラン・ヴェレッティ(19歳以下)のコーチを務めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランコ・バレージ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Franco Baresi 」があります。




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