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フランシス・ブリンクリー : ミニ英和和英辞書
フランシス・ブリンクリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フランシス・ブリンクリー : ウィキペディア日本語版
フランシス・ブリンクリー[ちょうおん]
フランシス・ブリンクリーFrancis Brinkley1841年11月9日 - 1912年10月22日)は、イギリスジャーナリスト海軍軍人
== 来歴 ==
1841年アイルランドミース州の名門貴族の家に生まれた。1867年香港を経由して日本駐屯イギリス砲兵中尉として横浜に来日すると、勝海舟らに見いだされて海軍省のお雇い軍人となった。日本の海軍砲術学校の教師に就任、1871年には『語学独案内』(Guide to English self-taught、1875)という本を著述、好評を博した。ブリンクリーはのちに工部大学校の数学教師となっている。その後、ジャーナリストに転じ、1881年にはジャパンウィークリーメール紙(1870年創刊)を買収、経営者兼主筆となって、以降、親日的な態度により日本の立場を擁護しつつ、海外に紹介している。また、寄書家に広く紙面を解放していた。
日清戦争後はロンドン・タイムズ紙の通信員となって、再び日本の事情を広く世界に知らしめている。1878年、当時、外国人との結婚に厳しかったイギリス人であったが、田中安子という女性と結婚している。1885年2月、今井町の官舎を引き払ったジョサイア・コンドルを9月までの間、麹町区飯田町の自宅に同居させている。また、同年8月1日から10日間、河鍋暁斎、コンドルとともに日光へ写生旅行に行っている。翌1886年11月、コンドルが学生を率いて訪欧したのを機にブリンクリーは暁斎に入門、日本画を学んでいる。『河鍋暁斎絵日記』の1887年3月5日から1888年8月11日の記述において数回、フレンキン、ぶれんき君、フレンキ君、フレシキ君、ブレンクリン君などとして登場しており、これらはこの頃、暁斎に入門したブリンクリーのことを指しており、同一人物とみてよいであろう。几帳面な一面を持っていた暁斎も人名に関してはルーズであったようである。『河鍋暁斎絵日記』によれば、当時のブリンクリーの家は芝区田町にあり、二階建ての洋館であったようである。この間、1887年4月30日にはブリンクリーの家において、ロンドンから来日した画家、モーティマー・メンピスと暁斎が画論を交わしている。暁斎による日本画の稽古は、暁斎がブリンクリー宅へ出張する出稽古の場合と、ブリンクリー自身が暁斎宅へ赴いて行われる場合の両方であった。なお、暁斎による出稽古の時には、八十吉が同行していた。
また、ブリンクリーに関するエピソードとして、酒井藤兵衛浮世絵店にたびたび「弁慶」という名の外国人が訪れて、盛んに喜多川歌麿の錦絵ばかりを買って帰ったという話が知られている。錦絵50枚ほどを選んで価格を聞いたこの外国人に店主は1枚1銭のつもりで指を一本立てると、この外国人は5円を置いて帰ったという。驚いた店主に対し、大変喜んでいたその外国人に間違いだと気付かれぬよう、そっとその場を去り、数日は店を開かずにいたという。やがて、ほとぼりも冷めたころと思い、同じ場所に店主が行くと、待ちかねたようにこの外国人が来て、数枚の浮世絵に大金を払ったといわれる。実はこの「弁慶」という外国人が、アイルランド人の日本美術コレクター、ブリンクリーその人であった。ブリンクリー自身はこの「弁慶」という愛称を気に入り、自らもベンケイと称して絵を描いていたといわれる。
元軍人であったため、「キャプテン・ブリンクリー」として親しまれていたが、1912年10月22日、麻布の自宅で没した。墓所は青山霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランシス・ブリンクリー」の詳細全文を読む




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