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フランシス・ペガァマガボウ : ミニ英和和英辞書
フランシス・ペガァマガボウ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

フランシス・ペガァマガボウ : ウィキペディア日本語版
フランシス・ペガァマガボウ[らん]

フランシス “ペギー”・ペガァマガボウ(Francis "Peggy" Pegahmagabow, 1892年3月9日 - 1952年8月5日)は、カナダ軍人狙撃手オーストラリア帝国軍ビリー・シンと共に、第一次世界大戦における世界最高のスナイパーと言われる狙撃の名手。西部戦線において公式確認戦果として通算378名の敵軍兵士を射殺したとされる。最終階級は伍長
カナダの先住民族のひとつオジブワ族の血を引いており、戦後は彼らの地位向上にその生涯を尽くした。
== 第一次世界大戦 ==
1892年、オンタリオ州オンタリオ湖パリー島で、ネイティブカナディアンのオジブワ族の家庭に生まれ、オンタリオ湖で漁師兼五大湖水上消防士として生計を立てる。
1914年、23歳の時に第一次世界大戦が勃発すると、その開戦直後の8月にペガァマガボウは第23歩兵連隊事務所に赴き入軍を志願する。これは、それまで先住民として白人に虐げられてきたオジブワ族の地位を戦功によって向上させるためであり、同様の理由で第一次大戦に参加したオジブワ系兵士の中には、ペガァマガボウと同じく傑出した狙撃手だったことで知られるジョンソン・ポーダッシュ二等兵らがいる。
入営したペガァマガボウはカナダ軍第一歩兵師団、第一歩兵大隊に配属されると、1915年2月、ドイツ軍によってその国土のほとんどを占領されたベルギーへと派遣された。同師団はカナダからヨーロッパへと大西洋を越えた、史上最初の兵力であるとされる。
出兵前の訓練課程において狙撃手としての優れた才能を見出されていたペガァマガボウは、斥候としての教育を受け、スカウト・スナイパーとして最前線で戦うこととなる。1915年当時はまだ狙撃銃用のスコープがそれほど普及しておらず、彼が手にしたのはスコープマウントなしのカナダ陸軍制式ライフル、1903年式ロス小銃口径.303=7.7mm)であった。ペガァマガボウはこの銃と共に、第一次大戦の中でも最も危険な戦場を駆け巡ることとなる。
ペガァマガボウの経験した最初の大規模な実戦は1915年4月、ドイツ軍が史上初めて戦場で毒ガスを使用したことでその名を歴史に残したとされる第2次イープル会戦であった。両軍合わせて10万人以上が死傷したこの戦いで、ペガァマガボウの所属する第一歩兵大隊は開戦からわずか3日でその戦力の半数を失った。この地獄のような3日間を生き残ったペガァマガボウは、やがて戦況が塹壕を使用した膠着状態になると、そのスカウト・スナイパーとしての天才的な能力を発揮し始める。
ペガァマガボウは日没を待つと、愛銃を手に自軍の最前線、あるいはそれを超えて両軍の中間地帯まで進出し、塹壕に身を潜めてひたすらドイツ軍兵士が姿を見せるのを待った。無論暗視装置など存在しない時代のことであり、頼りは月光と星明りのみという暗闇の中で、ペガァマガボウはまるで昼間のように敵兵士を事も無げに発見し、確実に狙撃したと言われる。第2次イープル会戦が終結するまでにペガァマガボウは数十名の独軍兵士を射殺し、“ペギー”の愛称で狙撃の名手として友軍から知られる存在となっていった。
第2次イープル会戦での功績によって幹部候補生となったペガァマガボウは伍長に昇進し、1916年6月のソレル山の戦いにおいて、多数の独軍兵士を単独で捕虜にした功績により最初の戦功章(MM:Military Medal)を受勲した。なお、ペガァマガボウは不必要な殺戮を好まず、第一次大戦通算で300名以上を殺すことなく捕虜にしたと言われている。
その同年、続いて参戦した第一次大戦最大の戦闘、ソンム会戦においてペガァマガボウは脚部に重傷を負う。既に2年間の従軍期間は超過していたため除隊も可能であったが、数ヵ月後には大隊に復帰し、再び戦場で戦う道を選んだ。最終的にペガァマガボウは、第一次世界大戦において1914年の開戦から1918年の終戦までカナダ軍に在籍し戦場で生き残った、ごく少数のカナダ軍兵士のうちの一人となる。
1917年11月、ペガァマガボウと第一歩兵大隊は第一次大戦でも最も悲惨な戦闘の一つと言われるパッシェンデールの戦い(第3次イープル会戦)に投入される。廃村パッシェンデールを巡って沼沢地で行われ、先陣のイギリス軍が3ヶ月間にわたる苦戦の末約30万人の死傷者を出したとされるこの“泥の戦い”において、ペガァマガボウは無数の銃弾と榴散弾の飛び交う戦場の泥濘の中を駆け巡り、数多くの敵兵を倒しながらも、戦況を冷静に把握していった。双方の砲撃によって電話線が途絶して指揮系統を失いつつあったカナダ軍大隊司令部に、ペガァマガボウと彼の部下は逐次状況を報告して大隊の行動を的確に誘導、砲撃目標点を提示することで、この戦闘でカナダ軍を勝利に導いた。この時の活躍はカナダ軍の公式文書において以下のように記述されている。
:"At Passchendaele Nov. 6th/7th, 1917, this NCO(※) did excellent work. Before and after the attack he kept in touch with the flanks, advising the units he had seen, this information proving the success of the attack and saving valuable time in consolidating. He also guided the relief to its proper place after it had become mixed up." (※NCO=non-commissioned officer)
パッシェンデールでの活躍で戦功章に棒章を加えた(戦功章は2度目の受賞からはその意匠に横棒が加わる。表記は "MM and bar")ペガァマガボウは、その後も1918年8月のアミアンの戦いで活躍してさらにその棒章を増やし ("MM and two bars")、同年11月に終戦を迎える。3度の戦功章、12回の負傷、公式記録上の殺害数は第一次大戦で世界最多の378名という記録を残し、ペガァマガボウは故国カナダへの帰路に着いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランシス・ペガァマガボウ」の詳細全文を読む




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