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フランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ(フランス語:François Jean Dominique Arago、カタルーニャ語:Francesc Joan Domènec Aragó、 1786年2月26日 – 1853年10月2日)はフランスの数学者、物理学者、天文学者で政治家である。物理学では光学や創成期の電磁気学に大きく寄与し、また政治家としても業績を残した。 == 前半生 == ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村に4人兄弟の長男として生まれた。父は造幣所の会計係だった。弟のジャン (1788-1836) は北アメリカに渡り、メキシコ軍の将軍になった。ジャック (1799-1855) は探検家ルイ・ド・フレシネの探検航海 (1817-1821) に参加し、帰国後はジャーナリスト兼劇作家となった。末っ子のエティエンヌ・ヴァンサン (1802-1892) は作家としてオノレ・ド・バルザックと合作したこともあり、その後も合作の形で数多くの作品を書いた。 軍人になると決め、エコール・ポリテクニークに入学するためにペルピニャンの学校で数学を勉強し始めた。2年半で全ての科目をマスターし、トゥールーズで行われた入学試験ではジョゼフ=ルイ・ラグランジュについての知識で試験官を驚かせた。 1803年末にパリのエコール・ポリテクニークに入学したが、そこでは納得できるだけの知識も学問も身につけられないと知った。大砲を扱うことが希望だったが、1804年、シメオン・ドニ・ポアソンの助言と推薦に従いパリ天文台での助手の仕事に就いた。そこでピエール=シモン・ラプラスと知り合い、その影響もあってジャン=バティスト・ビオとともに子午線弧長の測量(これに基づいてメートルの正確な長さを規定する目的があり、ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルによって始められたがピエール・メシャンの死で中断していた)を完成する任務を与えられた。アラゴとビオは1806年にパリを発ちスペインの山岳地帯で作業を開始した。ビオは測量範囲の最南端であるフォルメンテラ島の緯度を特定した時点でパリに帰ったが、アラゴは作業を続行した。 ビオが戻った後、フランス軍がスペインに侵入して政治的混乱が生じ、バレアレス諸島にまでその影響が出てきた。アラゴの活動は地元民から疑われ、ある山の頂上で火を焚いたのがフランス軍と連絡を取ろうとしたスパイ活動だとされ、1808年6月にマヨルカ島で捕らえられた。7月28日、釣り船を奪って島を脱出し、8月3日にアルジェに漂着。そこでマルセイユ行きの船を見つけ、同行させてもらえることになった。しかし8月16日、マルセイユに船が近づいたころにスペイン人海賊に襲撃された。他の船員と共にロザスに連れて行かれ監禁されていたが、フランス軍がロザスに到達したことで解放され、捕らわれていた人々はパラモスに送られた。 3カ月の懲役の後、アラゴたちはアルジェ太守の要請で解放されてアルジェに戻り、11月28日に再びマルセイユに船で向かうことになった。しかし、船は北風に押し返され、ベジャイアに漂着。そこで船を修理してアルジェに戻るのにさらに3カ月を要すると思われた。そこでアラゴはムスリム聖職者の案内で陸路をとり、クリスマスにアルジェに戻った。アルジェで6カ月を過ごし、1809年6月21日、再びマルセイユ行きの船に乗った。マルセイユに無事到着したものの、検疫のためしばらく隔離された。ここで受け取った最初の手紙はアレクサンダー・フォン・フンボルトからのものであり、その後彼らの交流は終生続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランソワ・アラゴ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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