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フランソワ・カロン(、1600年 - 1673年4月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した〔Asia Society. (1874). ''Transactions of the Asiatic Society of Japan,'' p. 29. 〕 。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めた〔Frazer, Robert Watson. (1896). ''British India,'' p. 42. 〕。 しばしば、日本に渡来した最初のフランス人とされる〔References : - "Si on peut dire de lui qu'il était français, il est probablement le seul français qui ait visité le Japon sous l'ancien régime." Diderot ; le XVIIIe siècle en Europe et au Japon, Colloque franco-japonais ... - Page 222 by Hisayasu Nakagawa - 1988 - "En 1635 ce fut le tour de François Caron, sur lequel nous voudrions nous arrêter un moment, ... comme le premier Français venu au Japon et à Edo." Histoire de Tokyo - Page 67 by Noël Nouët - Tokyo (Japan) - 1961 - 261 pages - "A titre de premier représentant de notre langue au Japon, cet homme méritait ici une petite place" (Bulletin de la Maison franco-japonaise by Maison franco-japonaise (Tokyo, Japan) - Japan - 1927 Page 127)〕。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが〔"Colbert avait alors sous la main François Caron, qui, né en Hollande de parens français, avait été embarqué pour le Japon dès l'âge le plus tendre". Société de la Revue des Mondes, François Buloz, Page 140 "Francois Caron was born in 1600 of Huguenot parents, who were then settled in Brussels, but who shortly after his birth moved to the United Provinces." A True Description of the Mighty Kingdoms of Japan and Siam (1986)〕、実際にはフランス国民となったのは、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである〔Yavari, Neguin ''et al.'' (2004). ''Views From The Edge: Essays In Honor Of Richard W. Bulliet,'' p. 15. 〕。 ==日本で== ===通訳=== カロンは、料理人〔東インド会社は雑用係を料理人と称していたようである。〕として1619年に平戸のオランダ商館に着任した〔Otterspeer, Willem. (2003). ''Leiden Oriental Connections, 1850-1940,'' p. 355. 〕。その後、1641年まで20年以上滞在することとなる〔Caron lived in Japan from 1619 to 1641. ''A Collector's Guide to Books on Japan in English'' By Jozef Rogala, p.31 〕。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている〔 。1626年には商館助手に昇進した。 日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して将軍徳川家光に拝謁を求めた際には、通訳として参府している〔〔長崎遊楽 江戸参府年表 〕。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ることになるが、その際にカロンも同行した。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すことで交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィアと日本を往復している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランソワ・カロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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