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フランソワ・バセーヌ : ミニ英和和英辞書
フランソワ・バセーヌ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フランソワ・バセーヌ ( リダイレクト:フランソワ・アシル・バゼーヌ ) : ウィキペディア日本語版
フランソワ・アシル・バゼーヌ[ちょうおん]

フランソワ・アシル・バゼーヌFrançois Achille Bazaine, 1811年2月13日 - 1888年9月23日)は、フランス第二帝政期の軍人。勇猛且つ沈着な指揮官としてナポレオン3世の信任厚く、二等兵から元帥へと異例の昇進を果たしたが、普仏戦争では約17万の兵と共に不名誉な降伏をなし、共和国政府から戦犯として処断された。
==生涯==
ヴェルサイユ生まれ。1831年陸軍に二等兵として入り、2年後に志願してアルジェリア駐留の外人部隊の一員となった。パトリス・ド・マクマオン将軍の配下にあって、アルジェリアでの戦闘やスペインの王位継承紛争で活躍し、28歳で大尉、40代前半で早くも大佐将軍に昇進する。クリミア戦争1854-56年)では、外人部隊の連隊長としてセヴァストポリ攻囲戦で戦功を挙げ、第2次イタリア独立戦争1859年)では、ヴェローナ近郊の要衝ソルフェリーノ奪取に成功した。
勇敢で忍耐強い戦い振りは、マクマオン元帥を通じてナポレオン3世の知る事となり、メキシコ出兵では1863年に遠征軍の総司令官に任命される。同年5月に要衝プエプラを占領、翌6月には同国大統領ベニート・ファレスを駆逐して首都メキシコ市に入城を果たし、バゼーヌはプエプラ占領の功により、同年9月に元帥府に列せられた。翌1864年にフランスの傀儡政権第2次メキシコ帝国が成立し、オーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公が即位したが、アメリカの援助を受けたファレスの根強い抵抗は続き、バゼーヌは秩序の維持は困難と見て、1866年にナポレオン3世と皇帝マクシミリアンに帰国を提案した。だが、帝位に固執するマクシミリアンは提案を拒否、ナポレオン3世の再三の説得にも応じなかったため、やむなく翌1867年3月、バゼーヌはメキシコからの撤退を開始した。同年6月に皇帝はファレスの軍に捕えられ処刑された。
1870年7月に普仏戦争が勃発すると、バゼーヌは第3軍団司令官に任命されるが、ヴィオンヴィル、マルス・ラ・トゥール、グラヴェレットの各戦いで連戦連敗。さらにメス(メッツ)の要塞に攻囲されたが、防衛のために全力を尽くすこともなく、54日間の篭城の後10月23日に17万3千の兵とともに降伏した(→メス攻囲戦)。この戦いと9月のセダンの戦いの敗北によって、主力軍の殆どを失ったフランスの敗戦は決定的なものとなり、翌1871年1月にパリは陥落し、第二帝政は崩壊した。なお、バゼーヌのこの一連の不可解な行動に関しては、彼自身が自軍の兵備に対して大きな不安を抱いており、積極策を取る事を躊躇したことが原因の一つと言われている(彼が開戦直後友人に宛てた手紙の中に、"Nous marchons a un desastre"「我々は敗北に向って進んでいる!」という一節がある)。だが一方で、攻囲軍側の将官にバゼーヌの外人部隊時代の同僚がいたことや、バゼーヌ自身の政治的野心などから、彼がプロシア側と内通を図っていたのではないかという疑惑も根強くあり、またその意見が当時のフランス世論の大勢を占めたことで、結果的にこの行動が彼を窮地に陥らせることになった。
フランス国民のバゼーヌ元帥への憎悪は激しく、翌1872年共和国政府によって戦犯として拘留され、翌年のトリアノン軍法会議で絞首刑の判決を受けた。だが、直後に行われた大統領選挙でマクマオンが大統領に選出されると禁固20年に減刑され、サント・マルグリート島に拘禁された。これはマクマオンがバゼーヌを亡命させるための措置と言われ、果たして翌1874年にバゼーヌは島を脱出、ジェノヴァイタリア)、ロンドンを経て、1875年にスペインのマドリッドに定住した。スペインでは国王アルフォンソ12世に厚遇され、13年後の1888年に没した。
"L'armée du Rhin depuis le 12 août jusqu'au 29 octobre 1870"(1872)、"Episodes de la guerre de 1870"(1883)の著書がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の詳細全文を読む




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